平成という「敗北の時代」が日本にもたらしたものは、経済的な停滞だけではなかった。井の中に閉じこもったカエルが、いつの間にか茹であがっていたとしたら……。そんな状況を打ち破るために、企業、そして大学は何をすべきなのか。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)
― 「茹でガエル」がどう「よみがえる」か。講演や寄稿で、総花主義、自前主義からの脱却が必要とおっしゃっていますね。
小林
そうそう。まだある。横並び主義、エセグローバル主義、事なかれ主義、妬み・嫉み。そこと早く決別しないと、日本はだめなんだよ。スピード感が全くないから。
これ、見てください(下図)。この30年で本当に「平らに成」っちゃった。確かに平和にもなったけれども。
― 新聞報道によると、三菱ケミカルなど16社で「カーボンリサイクルファンド」というファンドを創設するとか。二酸化炭素(CO2)回収・再利用の技術開発で16社連合というのは、主張の具現化ともとれます。
小林 世耕弘成さん(当時経済産業大臣)に会って、そのファンドを作ったんですよ。
曄道 新聞には、1億円ぐらいの規模と書かれていましたね。
小林
お金については、まだ決めていないんです。今年いっぱいは調査だから、せいぜい1,000万とか2,000万円ぐらいでしょう。発起人16社のほか、2個人、大学も入ってくれている。
もうけとイノベーション、サステーナビリティーの3軸で考えるなら、サステーナビリティーを大事にしたい。CO2をどう減らすか。植物がやっているように、CO2をカーボン源にするとか。植物はCO2と水と太陽光からカーボンハイドライドを作り、動物はそれを食して酸化して、CO2にしている。これをぐるぐる回せばいいだけだ。エネルギー密度的には低いんだけれども、今までは悪者になったCO2を…。いや、本当に悪者なのか。
大体、我々の体もみんなカーボンだ。「脱炭素」とか「低炭素」という言葉がおかしいんですよ。炭素循環、カーボンリサイクル社会というのをつくっていかないと、2050年に80%、CO2排出を削減なんて、気が遠くなりますよ。できちゃったものをもう一回戻すというテクノロジーも開発しなきゃいけない、という考えへの賛同者が集まってやっているだけだ。
一つの社会貢献と考えています。地球が破壊しそうになっているから。海がプラスチックごみであふれ、パリの気温が42℃ですからね。誰が考えたって、原因は化石燃料を燃やしている人間でしょう。動物と植物のバランスが崩れている。2050年、プラスチックの重さと魚の重さが同じになるという予言まで出ている。
CO2については今まで、案外、実感がない。けれどもこれだけ暑ければ「地球温暖化」とあえて言わなくても、何かおかしいと実感するはずでしょう。それに対し、日本流の新しい提案をやっていこうということです。
曄道 炭素循環の化学的な反応の中身を理解できる学生がいれば、全くそうでない学生もいるでしょう。「脱炭素」ではなくて「循環」という発想を、経営者だけでなく若い人たちも持つ必要があると思います。大学としては、どうしたら、そういったセンスのある若者を育てられるかということを考え、構築していくかです。
小林 おっしゃる通り。まさに、そういう教宣活動もしていきたい。案外、世間に知られていないんですよね。ましてや、学生さんはそういう教育受けていないから。そういうことをこの仕組みの一部でやろうと考えているんですよ。
― そのプロジェクトに、上智は入らなくていいのですか。
曄道 ぜひ! そういうセンスの醸成こそ今、我々が考えているものです。社会に出ていくための基盤をつくる教育に転換したいと、上智大学はすでに取り組みを始めています。柱は、これからの科学、あるいは社会制度の発想を転換させ、どういうふうに未来を構想するかです。そのセンスをどう育てるか。今、大学が抱えている大きな課題です。
小林
例えば、スウェーデンの少女*が国連に行った。飛行機に乗ると化石燃料を使うから、彼女はヨットで行ったでしょう。ああいう発想が自然に出てきている国もあるんですよね。
恐らく、彼らは小さいころからディベートをしながら学んでいたはずだ。自分らの世代になったら地球が潰れちゃうという強い焦りがあるからこそ、あんなことをして国連にプレゼンするわけでしょう。だから、そういう人、素養をどうやって育てるかが重要じゃないですかね。
*スウェーデンの環境保護活動家グレタ・トゥーンベリさん (16)。ニューヨークとチリで行われる国連の気候変動会議に出席するため、ヨットで大西洋を横断した。15日間、4800キロの旅を終え、8月28日にニューヨークに到着した。
― 「敗北の時代」の責任は、企業、そして教育の問題もあるとご指摘でした。大学の責任についてはどうお考えですか。
小林
責任という観点で見ると、私立大学が最近、ガバナンス・コード*という感じのものを出していますよね。国立大学協会も、何となく出している。
企業の場合は、もっぱら資本家、株主の方を向いてきた。株主に裁かれてきたから。ところが最近、アメリカの主だった企業の経営者団体「ビジネス・ラウンドテーブル」が「企業は株主だけのためになるのではない。地球、社会、そのほかのステークホルダーズ全体に対してあるんだ」と言い出した。
日本では昔から言われていることだ。僕は「快適経営」が必要だと言ってきた。企業自身がもうけて法人税払うのもいいけれども、近江商人の「三方よし」の視点から考えたら、企業にもよくて、お客さんもよくて、社会もよし、この三方がよくなってこその「快適経営」だと。当たり前のことが、アメリカでもついに見直されるようになったわけです。
では大学人は一体、誰に裁かれるんだろう。裁く人もいなくて、「学問の自由」とか言っている。不遜にも、自分自身が偉いみたいな。そういうところが目につくんですよ。
*大学のガバナンス・コード 大学の教育・研究・社会貢献の活動を支える経営・ガバナンスのあり方を明文化。国立大学協会や私立大学連盟などの大学団体がその骨子を策定。それを参考に、各大学が構築している。
― 曄道先生、反論をどうぞ。
曄道
私は、同調します。それには、強く同調します。
教育も研究も大学に閉じていてはいけない時代です。これと学問の自由の維持とは別問題。社会の中で大学がどういう役割を果たすかを、社会を挙げて考えるタイミングです。大学に限らずどんな組織でも、組織の中に閉じて議論すれば、必ず「できることをやる」という結論を導きます。ここからの脱却が必要でしょう。
小林
国立大学だと、先生たちはただ、苔むした学問をぐるぐる授業で繰り返している。そんなことしたってしようがないではないか。時代の先を見た、例えば新しい統計学などに取り組む人たちの数が少ないんですよ。どんどん新陳代謝しなきゃいけないのに、しない。「学問の自由」という名のもとに、何も選別をしないから。本当は、時代の感覚に合わせて変えていかなきゃいけないのに。
もうおじいちゃんみたいな先生が、「俺はこの苔の大家だ」とか言っている。否定はしないが、新しい潮流を見なくてはいけない時代に来ていることは自覚してほしいんです。統計学をベースにしたデータイズムという潮流が来ているのに。企業だったら、もうそっちに切り替えているわけですよ。
大学人がそういう新陳代謝を繰り返していかなきゃ、日本は強くなれない。スタンフォードであろうが、ハーバードであろうが、MITであろうが、今すさまじい勢いで変わっているわけだよね。大学の予算のかけ方もさることながら、研究テーマもどんどん変わっているじゃないですか。
― 大学に対する期待が強いのですね。国立大学に対するご発言の根底には、CSTI*での議論もあるのでしょうね。私立大学については?
*総合科学技術・イノベーション会議。議長は安倍首相。国立大学改革の現状や方向性が重要な議題として論議されている。小林氏は2018年から同会議の有識者議員。
小林 私立大学もそうでしょうが、でもまあ、国立よりはいいんじゃないですか。
曄道
私立大学は、生き残りを常に自問自答しないといけない立場にあるので。ただ、新陳代謝という観点で言うと、私は成功しているとは思っていません。何で成功してしないかというと、どうしても教員評価は研究ベースで行われているのです。研究ベースで評価される限りは、やはり、自分の研究フィールドの中で実績を上げる、上げたというところが基盤になってしまう体質からなかなか脱せない。逆にそこから抜けられない人は、評価が下がらないわけです。一度大きな成果を上げると、「大先生」になってしまう。
そういうことを考えたときに気になるのが、私立だろうが国立だろうが関係なく研究者がよく口にする言葉。「いや、でも、やっぱり基礎研究が大事でしょう」ーこの表現なんです。
小林 そこへ逃げ込むんだよね。
曄道
はい。「基礎研究こそ日本の…」という所へ。基礎研究そのものの話ではなくて、研究者としての姿勢の話をしているわけですね、あくまでも。基礎研究も、変わっていくべきものは変わっていかなきゃいけない。一人の人間が大学に入り、そこで一生懸命、自分の分野で業績を積んでいくことは大切ですが、教員としての業績は5年、10年のスパンでやっと開花するものだという時間軸の尺度が長過ぎていないだろうか、と思うのです。時代がどんどん変わっているのに、ようやく前やっていたことで成果が出ました、みたいな話になるということが、そもそもの問題だと考えるのです。
人の入れ替えがどんどん起きていくような組織にしていかないと。1人の教員を雇ったら40年間、その人は一生懸命、こつこつ研究していきましたという評価だけでは、今おっしゃったような、代謝にはならない。だから、そういう意味で、日本の大学を、人の移動がしっかりでき、切磋琢磨できる仕組みに変わっていかなければいけないと考えています。
小林
企業で労働者の移動をフレキシブルにしようというのと同じように、大学でも教授を入れかえなくては。例えば、国立の滋賀大学*は、AIの教授をどんどん入れている。信州大学*は地元の自治体とロボティクス関連で共同研究している。慶應義塾大学*も山形に研究所を作ったり・・・。けれども、大学全体を見るとどうか。一階にそうとは言えない。企業は新陳代謝をしないと、あっという間にだめになり、時代に取り残されてしまう。では大学人は、誰に裁かれるか。少なくとも予備校ではないでしょう。学生か、授業料を払うご両親か、社会か。今、名前を出したような大学は例外的で、多くの国立大学は、運営費交付金が少ない、少ないと愚痴を言うだけで、競争的資金を自分から取ってこようとしない。だから、僕は学長のリーダーシップが重要だと思うな。
*滋賀大学は日本初のデータサイエンス学部を開設。企業との連携で、ビッグデータ解析などに取り組む。信州大学は全国唯一の繊維学部と地元企業などが生活動作支援ロボットを共同開発。慶応大学は山形県鶴岡市に先端生命科学研究所を設立。研究成果からベンチャー企業が生まれている。
【ひとこと】 国立・公立・私立に大別される日本の約780の大学それぞれに歴史があり、文化も異なる。だが、共通のミッションはある。世界の未来を占い、人を育てることだ。大学の現状への小林氏の厳しいコメントは、その強い期待の裏返しと見える。果たして大学は、応えていけるのか。「大学人は、誰に裁かれるか」。この重い問いかけに、曄道学長はどう返すのか。(奈)