与えられた仕事を淡々とこなし、年齢と共に昇進し給料が上がる時代は、もう過去の話。「そんな幻想の中に住んでいてはいけない」と佐藤会長は言う。幻想の殻を打ち破って、広い世界に出て行くには、どんな準備が必要だろうか。困難に直面した時に、どうすべきだろうか。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)
― 佐藤会長ご自身のお話を伺います。数々の困難にぶち当たり、メディアに毎日のようにお名前を拝見していた日もありました。
佐藤すみません。
― いえいえ。そのときに、何が支えになったのでしょうか。
佐藤一つは、自分を客観的に見るよう心がけていたことです。先ほどご紹介した「リーダーシップ10カ条」にも掲げているのですが、Justice、正義とは何なのかと常に考えていることが自分を救っていると、今も思っています。
私は反社会的勢力のことで、5回記者会見し、2回国会に呼ばれました。皆さんから厳しいご意見を頂戴しました。確かに反社会的勢力の取り扱いに不備がありましたので、そこは大いに反省しなければいけませんでしたし、徹底的な再発防止策を仕上げました。一方で私は、「この問題の本質は何なのか」ということをずっと考え続けました。
とても優秀なお嬢さんがいて、ある有名高校に入ろうとした。ところが、その親御さんが反社会的勢力に属している人で、学校側はそれを理由に入学を認めませんでした。彼女はその対応に失望して反社会的勢力になってしまいました。
私たちは何を排除して、何を包摂しているのだろうか。私たちの線引きって何なのだろうか。例えば、入れ墨のある人がコンビニにおにぎりを買いに来て、お店の人が売らなかったら、基本的人権の侵害になるかもしれない。でも、買いに来たものがシュークリームだったらどうなるのだろうか。
私はあの事件で、あのころ、相当きつく責められましたけれども、問題の本質に迫りたい、迫らなければならないという強い思いが苦境を乗り越える大きな力になりました。
本質的に何が問われているのか、自分はいま何をしているのかとを客観的に捉えることで、困難を乗り切る。そういう癖ができているのではないかと思います。
― 自分を俯瞰しているということですね。
佐藤そうです。現状だけ見ていると、あーダメだとなってしまうじゃないですか。
― 感情的になってしまう、ということでしょうか。
佐藤そうですね。冷静になって自分自身を俯瞰して見ることで、人間は強さを手に入れられるのではないかと思います。
― 佐藤会長は、どんな学生だったのでしょうか。金融に進まれたのはなぜですか。
佐藤私はマスコミ志望で、卒業したらテレビ局に入ることになっていたのです。経済部の記者になろうと思っていました。研修を受けて記者手帳までもらって、申しわけないことに3月30日に断りに行きました。さんざん叱られました。経済に非常に興味を持ったのは10代の頃からで、唯物史観という歴史観に強く感化されていました。世界を動かすのは下部構造である経済だと思い込んでいたので、大学でも経済学を専攻しましたし、経済記者になろうと思ったのです。
しかし就職が決まってから、経済活動の真っ只中で働いてみたい、経済を通して社会を発展させることに直接関わってみたいという思いが強くなり、マスコミへの就職をお断りし、学士入学をしてもう1年、大学で勉強してから日本興業銀行に入りました。
日本興業銀行は都市銀行ではなく、戦後日本の経済発展を産業育成の観点から支えてきた社会性の高い銀行でした。そこでは非常に多くのことを学ばせてもらいました。
社会や産業だけでなく、金融機関の社会的責任といったこともすごく考えさせられましたし、東日本大震災で福島の常磐興産― フラダンスの映画で有名になった、あの常磐興産の業況が厳しくなったときに、みずほはお金を貸して再建に協力しました。金融機関に勤めることの意義はそうしたことができることでもあるのだと思います。
― なるほど。いつも自分を客観視するというのは、そういう中で出てきたのですか。
佐藤もともと本は好きで、歴史も好きでした。さっき申し上げたような歴史観は多くの読書から得られたものです。文章を書くのも好きなので、ずっと日記を書いていました。後で読み返してみると、時代背景みたいなことを自分の頭の中で構成し直して、そしゃくしている自分の姿が結構出ている。日記を書くという作業も含めて、絶えず自分の立ち位置を確認していくという作業を無意識のうちにしていたのだと思いますね。
― 日記は、いつから、どんなきっかけで書かれたのでしょうか。
佐藤中学1年から。母親が書いてみたらと言ったのかもしれません。随分、詳細な日記ができ上がっています。大学時代は、童話を書いていたこともあるんですよ。文章書くのが、きっと好きなんですね。マスコミを選んだのも文章を書くのが好きだったからですけれども、もうちょっと、違う道もあったのかなと思うこともあります。人生が二度あればいいなと思います。
― 二度あれば、作家になりますか。
佐藤作家になりたいですね。
曄道文章をお書きになるのが好きだとおっしゃるのは、やっぱり、ご自身に信念があるからですよね。
佐藤そんな立派なものはないですけれどもね。
曄道いやいや、客観的に物事を、あるいは自分を見ていたとおっしゃっていましたが、それは信念のある人だからできるんだと思います。それがない人が客観的な立場に立つと、ただの外部の人間になってしまいます。つい自分と対比しながらお話を伺っていました。
佐藤15、16歳頃の感受性の強い時期に、決して失ってはいけない価値観みたいなものが、核としてできているんだと思うんですよ。皆さんも。
それを意識しながら広げていくということを続けていけば、やがて信念につながっていくのではないでしょうか。
曄道そうですね。核として持ってらっしゃったものの一つが、先ほどの「Justice」でしょうか。
佐藤人をリードしていくときには、こういう公平感とかJusticeはすごく大事です。例えば、札束で顔をはたいて人を引きつけることも、あるいは暴力的、ハラスメント的に引っ張っていくことも、できなくはないです。けれどもそんなものが持続性があるとは、とても思えません。「あの人のためなら命を捨ててでも」というリーダー像は、公平感のような基本的な立ち位置を持っている人なのだろうなと。小林喜光さんもそういう感覚をお持ちなのだと感じます。
― これからご自分の道をどういうふうに歩んでいきたいと考えていらっしゃいますか。
佐藤私ももう67ですが、人生100年時代ですから、まだまだアクティブに行動したいと思っています。自分でも起業してみたいなと思ったりします。何より若い人たちに自分の経験を、自分が大切にしてきた様々な価値観を何らかの形で伝えていきたいなと思っています。
曄道それは心強い。ぜひ、上智で。
佐藤若い人と話すと、自分も深く刺激を受けます。楽しいですので、何かお役に立つことがあれば。
曄道ありがとうございます。
佐藤よろしくお願いします。
― 最後に、次の求道者をご推薦ください。
佐藤ぜひ、お話を伺ってほしいのは、日本航空の植木義晴会長です。JALは過去に会社更生法適用会社になりました。そのとき植木氏はパイロットでした。彼は突然社長に指名されて、JALを立て直されたのです。一パイロットが社長になるという珍しさ。そして、彼がやった改革の素晴らしさ。彼はJALに新入社員が入ると、今でも全員を御巣鷹山に連れて行くそうです。新入社員に事故現場を全部見せて、安全の大切さを身をもって感じてもらうためだそうです。
会社更生法を適用せざるを得なかった航空会社を、極めて苦しい状況の中から、社員を鼓舞しながら立て直すという作業は、強い信念と卓越したリーダーシップがなければ決してできることではありません。明るく愉快なお人柄ですが、気骨のある素晴らしい方です。非常にシャイな方なので、インタビューをお受けいただくのにご苦労されるかもしれませんが、「佐藤からの強い依頼」と言っていただければ、最後はOKしてくださると思います(笑)。
― そうさせていただきます。今日はありがとうございました。
佐藤こちらこそ、ありがとうございました。
【おわりのひとこと】 データ駆動の時代においても、やはり人は人とのつながりの中で生きていくのだ、と対談を通して改めて感じている。そうした時代だからこそ、ますます「相手の立場で考えられる人」は重要なのだろう。では、どうしたらそんな力を手にできるか。佐藤会長おすすめの書「21Lessons」で、著者のハラリは今という時代を生き抜くための心得の一つとして「ひたすら観察せよ」と書いている。そう。学びは常に、観察に基づく問いかけから始まる。(曄)
次回は、日本航空株式会社 植木義晴代表取締役会長(1月17日掲載予定)