天職のパイロットを捨て、「経営の神様」稲盛和夫氏の指南を受けながらJALの立て直しに着手する。挑んではボコボコに負け…の末に、社長に就任。そこから「一番努力し、学んだ」6年間が始まった。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)
― なるほど、人生はおもしろくなくちゃいけない。
植木 そうそう、自分のため、自分の描いた人生。
曄道 ご自分の描く人生像、スタイルがある。一方で会社の再建という、会社への思いがある。それが一致することが重要だったんですか。
植木
自分がやりたいこと、周りから望まれること、これは、いもいつも一緒だったらいいけど、そうはいきませんから。でも、それを僕は強引に引っつけちまうんですよ。いつの間にか、自分のやりたいという気持ちがあったら。
だから、そういう社長の間の6年、これほど苦しく努力した時期はない。でも、何でそれができたのか。「いや、自分が社長を受けたんやろ、やりたいと思ったんやろう、だったら、やるのは当たり前だよな」というだけのことであって。だから、望まれるものを逆に肯定した段階で、自分が望んだことに僕はいつも自分で理論づけちゃっているんですよ、きっと。
俺は人生67年間で、やりたいことしかやっていないんだと言うんだけど、やりたくなくても、やらざるを得ないことも、当然、やっている。だけど、それを自分のやりたいことだというふうに、自分の中で位置づけちゃっている。だから、楽しく生きてこれた。
曄道 なるほど。その再生の道筋について、努力してこられた会長を、組織はどう支えていたのでしょうか。組織としてどう機能していたのでしょうか。つまり、破綻した組織は人を支えられないはずなのですから。
植木 そのきっかけづくりは、稲盛さんがしてくださいました。だから、あのきっかけがなければ、うちは少なくとも今の形には、再建してないですね。だけど、これはおっしゃっていた。「俺はきっかけはつくる、2年から3年はいてやる、だけど、その後やるのは、この会社で育ったプロパーの社長でやるしかないんだ。」それをやったということですね。6年間、社長として、僕は何やってきたのかというと、3万5,000人の社員を惚れさせてきただけです。
― 社員を惚れさせる?
植木 そう。社長は惚れられないと、何の仕事もできないですよね。だから、6年、365日×6年間、こびを売りまくって、社員に愛される社長になるためにはどうすればいいんだ。これが一番のテーマですよね。もちろん、いろんな、例えばエアバスの購入を決めましたとか、いろいろ項目はありますよ。ありますけど、そんなのは優秀な部下が決めたっていいんですよ。だけど、社員をほれさせるのは社長しかできないでしょう。これさえできれば、会社なんか再建できるんです。
― どうやって惚れさせるのですか?
植木
これが難しい。過去の営業利益で、破綻前の22年間をプロットすると、赤黒半分半分なんですよ。11年間黒字が続きました。11年間赤字でした。こんな会社が経営破綻をした途端、営業利益率で13%平均、2,000億近い利益を、だーんと10年間出し続けているんです。
ここで大切なのは、その数字の変化ではなくて、この数字の変化をもたらした人。社員は一人も変わっていないんですよ。サッカーチームが新しい戦力を入れて強くなったというんじゃない。人数は減りましたよ、5万人からいったん3万3,000人にまで減りました。でも、この3万3,000人が、それこそ「ワンチーム」になって、スクラム組んで、全員で努力することができたから、こんな業績が残せるようになった。それがうちの誇りです。それをやるのが社長。
― 業績を上げることで、社長が愛されるということですか。
植木 違う。業績が上がったのは、ただの結果。僕がやりたかったのは、社員を幸せにすること、この一本。社員を幸せにするためには業績は必要だろう、おまえらに、何ぼボーナスをはずんでやりたくても、数字が出なかったら、俺が超お金持ちやったらいいけど、そうじゃないんだから、だったらみんなで頑張って業績上げて、それでみんなに分担してやるよと、そのために社長やっているんだということですよね。
― その結果、愛される? 何だかちょっと……。
植木 愛されるのは、なぜか、知りませんね。社員に聞いたら、全然愛してないですと言われるかもしれない。
曄道 いや、すごいですね。
植木 まず、自分が君たちを一番大好きだというのを宣言します。うちの企業理念の最初にあるのは、全社員の物心両面の幸福を追求し、と書いてあるんです。それは経営から社員に向けたメッセージ、約束ですよね。俺たちは何よりもおまえたちが好きだ、おまえたちを幸せにするために経営を、これがうちの企業理念だよ。もちろん、お客様があり、社会がありというのはあるけど、一番は君たちだ。
― 愛されるより、まず愛す。
植木
そうですね。
(突然、秘書さんがフォロー) 飛行機に乗るとすごいですよ。出張に同行すると、乗務員がみんなで(会長を)指差すんです。最後までできれば残ってください、写真を撮りたいからって。それで植木がいつも最後におりて、みんなと一緒に写真を撮る。その写真を、LINEやメールで共有しているようです。
植木 愛されるトップがいることは、会社がよくなる必須条件だと思っています。
― そうですね。トップが笑顔でいることも必須でしょうね。しかめっ面したトップは、会社を暗くしますから。
植木 そうなんです。俺、いつもえへらえへらしてますから。だって、自分が思う以上に、みんなは僕の一挙手一投足に注目しているわけですよね。社長がちょっと眉をひそめただけで、みんなが行動を変えてしまう。その中でしかめっ面している親分がいいのか、にこにこしている親分がいいのか。考えるまでもないですよね。それだけで大丈夫なんだ、うちの会社は、と思えるわけじゃないですか。
― 話を戻しますが、平成という時代をどう振り返りますか。小林会長は「敗北の時代だった」と語られ、佐藤会長は「再構築の時代」とおっしゃっていた。
植木 私は、言っちゃ何ですけど、パイロットですよ。
― 大空から社会をご覧になっていた。
植木
むちゃくちゃ、気持ちいいですからね。
こちらの図を見てください(下図)。ここが経営破綻の年なんですよ。その前、赤黒、ほぼ、交互なんです。それ以降は台形に変わっている。僕の自慢は、ここでメンバーチェンジしたわけじゃないよ。同じメンバーで戦ってきて、こういうのをつくりました。
佐藤ちゃん(みずほFG佐藤康博会長)は同じ年生まれなんですよね。あいつはどう思っているか知らんけど、僕は親友だと思えるやつですよね。60過ぎてから知り合って。
― 同じことを佐藤会長もおっしゃってました。
植木
本当? 俺を紹介したと言うんで、すぐ抗議の電話を(佐藤会長に)した。俺がこういうの嫌いなのわかっているのに、おまえ何考えてんねん、と言いながら。でもうれしかったんですよね。彼は、それだけ俺を信頼してくれているんだという意味では、本当はすごいうれしい。
最初の出会いは、2012年2月に社長になったとき。経営破綻した2010年、みずほにも莫大な債権放棄をお願いしていた。社長になってすぐご挨拶に行って、そのときの頭取が、彼なんです。申し訳なかったと、ご迷惑をおかけしまして、これから頑張りますと頭を下げたら、彼が、「そんなことよりも植木さん、昭和27年生まれですよね」と言ったんです。「はい」って言ったら、「僕もそうなんです。昭和27年生まれの社長の会をつくろうと思うんですけど、メンバーになってくれますか」と言ってくれたんです。こいつ、なんちゅう懐の深いやつやと思いましたよね。この人は信頼していいだろう。それ以降、やっぱり、いろんなところで会って話を聞くたびに、あっ、似た者同士なんだよな、俺はバッタモンで、あいつは正統派やけど、でも、下に流れている血は同じものが流れているなあと。
それで、僕が社長になって3年目ぐらいに、「役員候補生の100人から200人の勉強会をしていて、そこで講演してくれ」と言われて、「何考えてんねん、君のところに、莫大な債権放棄と言えば聞こえはいいけど、借金踏み倒したのはうちの会社やで。その首謀者が何でみずほの人たちに話せるの、もう無理だよ」と言ったら、「そうや、そのときに一番迷惑かけたのは君や。そう、その君にこうやって頭下げてお願いしているのが聞けないのか」と言われたんです。それも正しいなと思って、そう言えば、そうだよなと。
ほとんど講演って僕はやらないんですけど、そのときはやった。最初にみんなの前で謝って、債権放棄していただいたことを、ただ申しわけないけど、これは今回棚に上げてさせてもらう。本気で話さなければ、この1時間は無意味なものに終わってしまうから、言いたいことを言わせてもらいますと言ったんです。
― 反響はどうでしたか。
植木
よかったみたいですよ。その後、電話してきて、昼飯一緒に食おうと言われて、そうしたら、人にこういう頼んでおきながら、それの点数つけさせていると言うんですよ。そのアンケートがこれなんやと言いながら、見せないんですよ。「いや、おかしい、これ点数良過ぎるねん、おまえがこれだけの点数取るのはおかしい」と言って。おもしろいですよ。
彼は、飛行機に乗る時には、うちに乗ってくれて、客室乗務員に植木ってどんな社長やと聞いていたらしい。そして、おまえのところの社員は、ちょっと頭がおかしいって言うんだ。立派な人ですとか、優秀な方ですと言うならわかる。ところが、おまえのところの社員は、「はい、大好きです」と言った。いや、そんなこと聞いてない、どんなやつだと聞いているのに、はい、私は大好きです、って。だから、おまえ、おかしいよなと言うんですよ。
お互いないところを持っているので、うらやましがっとんですけどね。
― その佐藤会長は再構築の時代とおっしゃっていましたね。
植木
やっぱり、僕にとっては、お空で気持ちよく飛んでましたからね。それだけの平成です。ただ、その最後にどん底を味わったということですよね。だけど、どん底が、ピンチがチャンスですよ。僕はそれでチャンスをもらったわけです。社長にまでなれた。ほかの社長にもたまに言われる。「おまえはずるい」って。何がずるいのと言ったら、パイロットって、男だったら少年時代に1回はあこがれた職業だ。せめてそれで終わっとけよ。そうしたら、経営破綻してざまあみろと思ったら役員になって、社長にまでやりやがって、許せないって。
確かにそうやなと、自分でも思いますよね。
― 「男の子の夢」をたくさん手に入れてしまったということですか。
植木 そうそう。だから、今から思うと、すごい幸せな人生を歩んできた。でも、それも社員が支えてくれたおかげですよね。
― 企業と大学との接点についてお聞かせください。今、雇用が変わり始めています。みずほの佐藤会長は、新卒の採用を絞るし、入社したら同じ仕事で定年までという働き方はないと思ってほしいというふうにおっしゃっていました。兼業の解禁も始まります。こちらでは、採用の仕方、それからその後の生き方を、どういうふうに変えていこうと考えられていますか。
植木
まだ通年採用まではいってないけど、経験者採用、既卒採用というものの人数は、だんだん多くなってきます。僕は22歳で入社して45年間、同じ会社で働いてきましたけど、結果としてですよ。いろんな場面でやめるという選択肢があるから、自分の人生を自分で選択してこれたわけです。
例えば、キャプテンになれ、なっていいぞ、と言われても、自分が納得しないうちはキャプテンになる気はなかったんです。でも、そんなの許されるわけない。会社の中で、これだけ訓練に金をかけて。でも、その選択肢を常に持ちながら生きてきたから、自分は結果的には、45年、自分の人生を歩んできたと思っているわけです。
社員にも、いつもその選択肢を持てと言っているんです。やめてかまへん、僕が望むのは君の幸せだから、君の幸せが別のところにあるのであれば、その道を歩け。ただ、ここで、ここまでやり切った、本望だというところまで行ったんだろうね、さらっとこなしてやめていくのは許さんぞ、ということです。
曄道 大学とは組織構造が違いますね。組織を活性化する意味で欠かせない「人事異動」に一定の制限があるからです。研究者の人事異動を組織の長もできないのですよ。組織的な膠着を生むというデメリットもあるけれど、いっぽうでメリットもあります。すばらしい研究を昇華させる人もいるし、学生の目線にたった深い教育を展開できる教員もいる。いずれにしても時間がかかる。
植木 もし誤解をされているのなら、解いておきたいので。僕は、自分の生きざまを話しているだけであって、これを誰かに押しつけようとは全く思ってないですよ。
曄道 その誤解は、全くしていません。
植木
ずっと、こうやって生きてきたんです。パイロットってそうなんです。たとえ後輩だろうが、命を守るのはキャプテンの責任ですから、そこには立ち入らない。意見求められたら言うかもしれない。そういうふうに育ってきているから、僕が社長になったとき、はたと困ったわけです。みんなに話してやるものなんか何もないし、そう思って生きてきてない。
でも、社長が好きなように生きたらいいよと言うわけにもいかんじゃないですか。どうすんやと思ったときに、こう生きろ、ではなくて、俺はこう生きてきた、俺ならこう思う——こういう話し方をいつの間にかしていたんですよ。だから、結局は、自分の生きざまを今までの経験を話しているだけのことであって、どこかの本から読んだことは一回もやったことないし、強制した覚えもない。
でも、おもしろいもので、そのほうが、みんな腹に落ちると言ってくれているんです。植木さんの話はなぜハートに届くんだろうというのを研究するために、うちの教育部門に1年間引っ越してきたというやつがいるんですよ、異動してきたやつが。何でここに来たのと言ったら、いや、植木さんの話は、なぜハートに届くのかを研究したかったから、ここに来たんですと。植木さんは、俺ならこうする、俺はこうやってきた、それしか言ってないんですね。それは全部事実だから、私たち聞いていられるんだと思います、と言われて、僕も初めてそうなんかなと思った。社長になっていろんなことを僕は学びましたよ、自分のことを。
― 自分も知らない自分のことを知ったのですね。
植木 そうそう。それまで自分のことを、そうやって認知する必要なかった。そんなのなくたって、いいランディングすればそれで勝ちやからね、だから、「なぜ」なんてなくても、僕の体の中に感性としてしみついていたら、それでいいと思っていたの。これを人に話すなんていうことは考えてなかった。
― マニュアルではなく、経験談。俺はこうしてきたという。どうしたら正解に早くたどり着けるか、そこから逆算して歩き方を決めるという風潮とは一線を画しているのですね。
植木
社内誌の中に「ハレバナ」というページがありましてね。晴れになるまで話したいという内容ですが、そこには書けないけど、おもろい話いっぱいあるよ、とインタビューをしてくれた社員に言ったら、植木さん、これ「モレバナ」という名前つけてイントラネットだけで載せたらどうかと言うから、いいよと。その中で「規程は破られるためにこそ存在する」というのを書いた。そうしたら非難ごうごう、本社の部長連中から、社長が規程破っていいって、どういうことですかねと。一方、現場のやつは喜びましたね。
僕が言いたいのは、誰よりも、マニュアル、法律、規程、勉強せえ。ただ、それがどうなっているだけじゃなくて、なぜ、これがつくられたのかという背景までちゃんと勉強してください。それをできた人だけ、必要なときにそのマニュアルを超えていく。お客様のためにと思うんであれば、勇気を持って超えてくれて構わない。そのときには全部責任は俺がとるという文章を出したんです。
マニュアルなんてくそくらえ。誰よりも勉強したよ。でも、マニュアルを守って500人の命死なせますか、自分の信念でこの500人救いますかと言ったら、間違いなく、後者ですよ。
【ひとこと】 マニュアルが作られた背景や、根底にある理念などを理解し、自分のものとする。だからこそ「マニュアルが使えない時」を判断できるのだろう。ではそれができるように、どう育てたらいいのか。いよいよ、大学の意味が問われる。(奈)