リスクが瞬時に国境を越え、世界を恐怖に陥れる。情報と金、目先の損得に翻弄され、根底から覆される私たちの日常。新型コロナウイルスのリスクと直面する今、何を武器にどう戦ったらいいのか。東京海上ホールディングスの永野毅会長に聞いた。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)
ながの・つよし
東京海上ホールディングス会長
1952年 高知県生まれ。
1975年 慶應義塾大学商学部を卒業し、東京海上火災保険に入社。
同社社長を経て、2019年から現職。
永野 上智とは意外なご縁があるんですよ。秘書は上智の卒業生。私は結婚式をクルトゥルハイム聖堂*で挙げました。珍しいでしょう。神父の泉類治さんを存じ上げていまして、この人はフランシスコ・ザビエルの兄の末裔なんですね。いまだに親交があります。
曄道 そうでいらっしゃいましたか。またぜひお立ち寄りください。
永野 とても素敵なところですね。式は2月19日でした。すばらしい晴天で、もう43年もたちますが、今でも覚えています。
曄道 クルトゥルハイムは、何かの指定建築物にという話もあるようですが、上智はしないんです。だから、当時のままの姿です。先日、ローマ教皇がお見えになったとき、最初にクルトゥルハイムに入られました。
*クルトゥルハイム聖堂…上智大学キャンパスにある、唯一の明治期の建築物。ドイツ語で、クルトゥルは「文化」、ハイムは「館」。
― 今日のキーワードはリスクです。毎日、新型コロナウイルスの感染拡大が報道される今、まさにリスクの渦中です。
永野 リスクを取るのが我々の仕事なんですよね。私たちはリスクをお引き受けするんですよ。将来何かあったときに困らないように、保険契約という形にしてお引け受けする。そういう仕事です。
― 今のリスクとはどういうものなのか、これまでのリスクと比べて何がどう変わっているのか。そこからお願いします。
永野
リスクというのは、身近なものからすごくグローバルなものまでたくさんあります。今まで人間社会の営みの中でとらえられていたリスクというのは、個人のリスクとか、地域社会のリスクとか、国のリスクとか、ある一定の範囲で解決できるものが多かったのではないでしょうか。
ところが最近のリスクというのは、例えば地球環境であるとか、環境の変化が引き起こしている災害だとか、あるいは格差の問題であるとか。新型コロナウイルスは、まさにそうです。特定の地域とか一国で解決できない。世界の英知をみんなで結集して、グローバルに知見を持ち寄って解決しなければいけないようなものがたくさん出てきています。
これが、近代のリスクの特徴ではないでしょうか。グローバルに人やものが行き来して、営みが地域を超えて地球レベルで起こっていることがリスクを拡大し、一国では解決できない事態を増やしていると思います。
もう一つは、そういう世の中になっているにもかかわらず、世界が分断していることです。資本主義にしても民主主義にしてもそう、地球課題にしてもしかりですが、国家間で誰かがリーダーシップを取って調整していこうとか、話し合いをして解決していこうとか、そういう機能が残念ながら失われている。みんな「自分さえよければいいじゃないか」と考えているのではないか、自分の国さえ守れればいいじゃないかと。ポピュリズムが横行し、それが国家主義を横行させている。そういう意味では、イアン・ブレマーさんがよく言っていることですが、「Gゼロの時代」、つまり世界でリーダーシップを発揮する人がいなくなってしまった時代ではないでしょうか。
今まではアメリカがそういう役割を果たしたりしていた。けれど今は、リスクそのものがグローバルにスケールアップしていて、同時にそれを解決する人がいなくなってきている。大きな目で見ると、これがまた大きなリスクと言えるのではないか。
リスクって、様々なんですよ。私ももう10分後にはすっ転んで死んでいるかも分からない。交通事故のリスクもあれば、飛行機事故のリスク、災害のリスク、財政のリスク…いろいろなリスクがあるから、我々のビジネスも成り立っているのですが。
曄道
人を育てる教育機関として考えると、今まで大学の中で、リスクというものをどうとらえるかといったことを体系的に教えてこなかったのです。学生たちが、地球課題としてさまざまなリスクが起きている、そこに今の時代があると理解しないといけない。
ただ、やはりこれからの学生たちを、そういうことを解決できるリーダーに育てようとすると、大きな構造をとらえなければいけない。たとえば気候変動で穀物の生産が下がる。国を超えて、どう取り組まなくてはいけないか。今回のコロナの問題では、中国と日本、韓国と日本の政治的、経済的な関係がどう影響しているか。それが波及する範囲も限定的なものではすまない。学問の立場からみると、経済だけではすまなくて、政治の問題も入ってくる。そういう風に大きな構造でとらえないと、解決は難しい時代です。
永野
もうちょっとやさしい言葉で表現すると、「つながり」ですかね。自分と社会、社会と社会のつながりがどうなっているのかということが、学生には見えないんですよ。社会の課題をどう身近なものにしてもらうかということが、とても大事だと思います。
もちろん、学生だけを責めてはいけない。大人の役割だと思います。学生さんに気づきを与える。気づきの場を提供するのが大人の役割です。この点、アジアの学生さんと比較すると、日本の学生の現状は顕著です。アジアにはまだ貧しい国や地域がある。そこから来ている学生さんに、何のために働いているの、アルバイトしているのと言うと、「国に帰ってダムを造りたい」「国に帰って社会をよくしたい」「お父さん、お母さんをもっと裕福にしてあげたい」という話になる。
日本の子どもたちからは残念ながら、「特に」「別に」といった言葉が出てくるわけですね。挙げ句の果てには、社会的な課題に取り組んでいる人たちのことを「意識高い系」って呼ぶんですよ。分かりますか。「意識高い系」というのは半分バカにしている言葉ですよね。そういうことを言う学生さんは、たぶん日本にしかいないと思いますよ。
だから、いろいろと考える癖をできるだけ若い頃からつけていったらと思うんです。何でもいいんです。身近な高齢者が快適に暮らせるにはどうしたらいいかとか、もっともっと身近なところでは、ご両親が共働きだったら、その負担を軽くするにはどうしたらいいかとか。いろいろ考えてほしい。学問と社会は分断されてはいけない。学問は何のためにあるか? 世の中をよくするためにあるわけですよね。企業も学校もそうです。ですから、そこのつながりをもっと考えてほしいと思うのですが、いかがでしょうか。
曄道
おっしゃるとおりです。今日、こういうお時間を頂いていることも、これは私の個人的な憂いでもありますが、そこにつながっています。小学校、中学校、高校、大学は、人を育てる教育機関を名乗り、我々はそれが社会貢献だという自負を持って取り組んでいます。その立場に立っている我々と、卒業後に生徒や学生を育て上げる産業界、実社会との接続について、議論が全くないのが実態です。
「産学なんとか」という取り組み自体は、国が主導する会議体もありますし、いろいろなところで盛んに話題にあがっています。しかし、侃侃諤諤の議論をする場面に遭遇したことがない。いろいろな委員会にも呼んでいただきますが、それぞれの立場の人がそれぞれ意見を言い、「いろいろな意見がありますね」といって、「じゃあどうしましょう」で終わってしまう。そこからが本来は議論、意見のぶつかり合いになると思うのですが、そうはならない。大学はこういうふうに考えている、大学人としては、人の思考力はこうあるべきでそれが育たない社会はどうなのかと言って、言いっぱなしになってしまう。大学で身につけたものを発揮する場が社会のどういうところにあるのかということが学生に充分伝えられていないわけです。
実のあるやり取りの場を、確かに大人がつくり上げないといけない。それを若い人たちが見ることで、初めて大学で学ぶ意義や学問の意義を理解できるのではないかと思うんです。
永野
今は高校レベルでも様々な取り組みが行われています。社会の課題をみんなで掘り下げ、洗い出して、どうやってそれを解決していこうと議論するとか、学びの場に社会人を呼んで話を聞いたり、社会人と共同で課題を解決する取り組みをしたり。結構いろいろな取り組みが始まってきているのですから、それをもっと大きなうねりにしていったらいいと思うんですね。高専も非常に実践的なことをやっています。
そうした現実も踏まえ、大学だけじゃなく、高校などと大学がセットで、社会にこれから飛び立つに当たってどんな内容をいつ学んでいくか、考えていったらいいと思うんですね。
高校でリベラルアーツをたたき込めという人もいるでしょうし、高校でもっと専門的なことを教えてもいいという人もいるでしょう。いろいろ意見が分かれてもいいけれど、それぞれの教育機関がいろいろな個性を出しながら、議論を深める方法はあるのではないでしょうか。
そもそも高校や大学の目的は何かというところを、みんなで論議していったほうがいいと思います。「何のために学んでいるんだ」ということを。
曄道
今のお話に対し、私たちはこう考えていますと言うべきですね。ですが現実の大学は、教育・研究の2本の柱、それに社会貢献を課されているのに、どうしても優秀な研究者を集めることに注力しがちです。その研究の先に何があるかというところに目線が行ってしまう。 「何のために学んでいるのか」。上智大学の場合、多くは学部を卒業すると産業界に出て行きます。ある学問を軸に大学で学んでいくプロセスやそこで得た知識が、社会に出たときにそのまま役に立つと、我々も期待しているわけではない。
学生たちにとっても、あるいは我々にとっても、考える力というものがどう発揮されるのかという部分を深く考えてないといけない。知を発揮する訓練が非常に手薄になっているんです。
今、永野会長がおっしゃっていた高校でのいろいろな取り組み。伺いながら最初は、そうなんです、今高校が非常に積極的で、と受けようと思ったのです。その瞬間、はたと疑問がわいたのです。なぜそういう場が大学にないのか。なぜ高校は広く社会の方を招き、生徒たちに課題意識を植えつけているのに、大学では乏しいのかと。
社会で活躍中の方に来ていただき、講義をやっていただくことはありますが、一緒に考えて、これが思考力の発揮ということなんだ、学問は実社会にこういうふうに貢献できるんだ、といったことをトータルに、体系的に進めていく態勢は全然ないですね。このことに対し、私は非常に強い問題意識を持っています。高校の先生方のほうが、そういうことへの意識が高いのかもしれません。大学は、やはり学問とはこうあるべきというところに、どうしても軸を置きすぎるきらいがあるのではないかと、危惧しています。
永野 高校で社会への意識が芽生えた学生は、大学に入学してさらに意識が磨かれるだろうから、そんな学生さんが増えれば、今までの大学とは質的に変わってくるんじゃないですかね。となると、先生方の意識のレベルも当然変わっていかないと。評価されるのは先生で、評価するのは学生・生徒ですから、昔と違って。これから大学もどんどん選ばれる時代になってくると思うので、変わらないと、恐らく選ばれないんじゃないかなという気がします。
― 学生の変化によって、大学教員も変わらざるを得ないということですね。先ほどのリスクの話に戻ります。グローバル化の中で、リスクは一地域一国で解決できない問題になっているとおっしゃっていました。AIの進化はそれに対して、どう影響するでしょうか。過去のデータをもとに予測することで、リスクを回避しやすくなるでしょうか。
永野
AIが進化してもリスクは何も変わらないんじゃないでしょうか。リスクはリスクとして残ります。AIといったって人間が課題を設定するわけですからね。最終的には人間が判断するわけです。人間がAIを使って何を解かせたいかという課題設定は、AIにはできないんです、残念ながら。
データをインプットすることによってAIは働いていくわけですから、将来の予測はある程度できるように進化していくでしょうね。
例えば、気候変動を過去のデータを使ってより正確に予測する。そのときの変数を、今までは10しか入れられなかったのを1,000入れても精緻な予測ができるようになるとか。そういうのは、どんどん進んでいくと思います。けれども、リスクそのものをなくす、例えば地球環境の変化を止めるとかは難しいんじゃないですかね。やはり人が行動しないと、リスクはなくならない。
AIはどういうふうな状況になったら大変なことが起こるという警告を発することも、できるかもしれません。AIが勝手に考え始める「シンギュラリティ」みたいなことが本当に起こるのだったら、別ですけども。ただ、私は起こらないと考えますので。だから、リスクは厳然とリスクのままで存在すると思います。
問題は、AIをはじめとする新しいテクノロジーを、人がどう使うかですね。AIが人に置き換わる社会は、絶対つくってはいけないと思うんですね。そのために大事なキーワードが二つあります。一つは「ミッション・ドリブン(mission driven)」。AIなどのテクノロジーを使うことが目的なのではなく、社会にあるいろいろな課題を解決するための手段として活用することを指しています。
もう一つのキーワードは「ヒューマン・セントリック(human-centric=人間中心)」。人が幸せになり、社会がよくなるために、AIなどのテクノロジーをどう使うか。私たちはこのことを忘れないで、新しい技術を使っていくことがとても大事です。
曄道
おっしゃるとおりです。今、本屋に行くとAIの進化で仕事がなくなるとか、反対に人類が幸せになるとかいう本がたくさん積まれています。社会の中に一定の混乱が生じているのかもしれません。学生たち若い人に、今がいかに不確実な時代、不透明な時代であるかということを私たち大人が伝えているわけです。AIで課題が全部解決されるなんてことはないと、きちんと伝えないといけないと思っています。若い人たちを見ていると、AIに依存するということへの危機感を抱いています。
私たちは大学で、教養を身につけましょうと言っています。学生たちの多くは、教養はスマホに詰まっていると思いがちなんですね。教養は検索すれば出てくる、と思っている。教養は本来は発揮されるものでなければならない。検索してスマホが出してくれるのは「情報」であるということにまず気づいていない。
今、学生は情報依存型になっているわけです。いろいろな自分自身の選択肢、選択基準もスマホでググれば出てくるという中で彼らは生きています。そうなると、今の若い世代の人たちが社会の中心に上がっていったときに、我々が今思っている以上にAI依存が強まるんじゃないかと危惧しています。
【ひとこと】 二人のやりとりで、オバマ前米大統領のスピーチを思い出した。2010年、ハンプトン大学卒業式での演説だ。〈学生諸君は四六時中メディアを手放さないが、(そこで得られる)情報は活力を得る道具でも解放の手段でもなく、集中の妨げ、気晴らし、娯楽の一形態だ〉。そう分析し、そんな状態が国や民主主義に「プレッシャー」になると警告したが、オバマ氏が電子機器の扱いが苦手だったこともあり、冷ややかに受け取る声が目立った。それから10年後、初対面の二人が、AIと人間との関係に警告を鳴らした。私たちは、少しは賢くなったのだろうか。(奈)