ちょっぴり贅沢で、ほおばると口いっぱいに豊潤な甘さと幸せがとけだす、ご存じゴディバのチョコレート。ところが、ゴディバ ジャパンのフランス人社長、ジェローム・シュシャン氏にとってこの数年は、甘いばかりの日々ではなかった。売り上げを7年間で3倍に押し上げてスイーツ界の雄となったのも束の間、突然、ゴディバグループから会社を売却され、ファンドの支援を受けて何とか独立。ようやく視界が広がり始めたら今度はコロナ禍……。次々と困難が立ちはだかった。それでも、「働くことを楽しもう」と提唱し続けることができたのはなぜか。様々な経営者が称賛するたたずまいの秘訣は、29歳から続ける弓道の教えにあるようだ。「正射必中」を胸に最前線で改革を断行してきた求道者に、いささかビターな道の楽しみ方を聞こう。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)
正射必中(せいしゃひっちゅう)…結果よりもプロセス
弓を構えてから矢を放つまでの過程「射法八節(しゃほうはっせつ)」を正しく実践すれば、必ず的に中(あた)るという弓道の教え。
ジェローム・シュシャン
フランス高級ジュエリーブランド、メレリオ・ディ・メレーや、パリ造幣局、モネ・ド・パリの立ち上げに参加。そのほかLVMHグループ、ヘネシーなどを経て、2010年6月にゴディバ ジャパン株式会社の代表取締役社長に就任。業績を7年間で3倍に成長させた。在日ベルギー・ルクセンブルク商工会議所、フランス商工会議所の理事。弓道は25年以上の経験を持つ五段錬士。国際弓道連盟の理事。著書に「ターゲット~ゴディバはなぜ売上2倍を5年間で達成したのか?」「働くことを楽しもう」
曄道 私たちのキャンパスは、ここから見えるところにあります。ちょうどこの正面。ここからだと、すごく小さく見えますね。ぜひ一度、四谷のキャンパスに遊びにいらしてください。
シュシャン ああ、あそこですね。はい喜んで。四谷にはゴディバのお店もあります。
曄道 そう、ホテルニューオータニや、四ツ谷駅ビル・アトレの中にも。お目にかかれることを楽しみにしていました。
シュシャン コロナでバタバタしていて、お約束が延び延びになってしまい申し訳ありません。急にフランスに行くことになったり、帰国してもこの時期ですぐに人には会えなかったりで。ごめんなさい。
― 資生堂の魚谷社長からのご推薦で伺いました。社長は29歳から弓道を始めていらして、「一射一射」「正射必中」といった弓道の教えを携えて歩んでいらっしゃると拝聞しました。
まず、この1年を振り返っての感想をうかがえますか。
シュシャン
コロナが社会的に大問題となった2020年3月。それぞれのお店を閉めるのか、閉めないのか。デパ地下はどうするのか。まずそこから始まりました。お客さまは待っていらっしゃる。でも、店のスタッフはどうするのか。みんなとても心配しました。お客さまの安全、スタッフの安全。やはり閉めるべきなのかと。
だけど半面、我々は何のために仕事するのかとも、考えました。ゴディバ ジャパンのミッションとは何だろう。それは、お客様に少しでも我々の商品を通して、記憶に残る幸せなひとときをお届けすること。閉めたら、その大きなミッションが果たせなくなる。じゃあ、頑張って開けておきましょう、お客さまに来ていただきましょうと決めたのですよ、まずは。
― 最初に「ミッション」ありきだったのですね。
シュシャン
そうです。(東日本)大震災のとき―もう10年前になりますね、この3月11日にもうそんなにたったのかと思いましたけど―外国の高級ブランドショップは90%以上、クローズドしたんですね。だけど我々は、その時もオープンしました。
お店にいらっしゃったお客様から、「ああ、ゴディバ、オープンしていていよかった」「ちょっとつらいけど、チョコ食べて気分転換になる」と言葉をいただき、お客様だけでなく、我々スタッフもこの環境下の中、お店を開けて良かったと再確認でき、スマイルになりました。
だから、今回も同じようにミッションを大事にしたわけです。お客様に、できるだけハピネスを提供していこうと。もう一つは、社員のハピネスです。社員の安全と安心はしっかり守らなくてはいけません。プロテクションが必要。消毒とか。お客さまと向き合う販売のスタッフなら、本人にとどまらず、同居するお父さんやお母さん、お年寄りや子どもたちの存在も心配です。そこで、該当する人は、お店で仕事しなくてオーケーですよってことにしました。ほかの人のローテーションでお店をやり繰りしましょう。でも、給料はそのまま。余分にお店に出てくれるスタッフにはプラスアルファを出しましょうって。
曄道 それは、大きなインセンティブになりますね。不公平感も出ないし。
シュシャン はい。おかげでうまくチームワークが発揮され、お店はオープンできてミッションも実現できたのです。
曄道
今、社長がおっしゃった安全の問題は最優先に考えるべきことです。私どもの大学では、たくさんの学生がわっと集まってしまうことを懸念して、結局、昨年前半は完全にキャンパスをクローズにしたんです。
ところがクローズにしたことによって、学生はかつて経験したことのない状況に直面しました。キャンパスに来て、仲間や先生たちと交流ができないという。安全の問題と学生生活、学生たちが期待するキャンパスライフを両立させてあげられない。私たちもすごく心を痛めましたが、結局、キャンパスを開くことはできませんでした。
今おっしゃったように、社員の皆さんが働く環境をフレキシブルに選択でき、しかも不利益が生じないというのはすばらしいですね。経営者としての理念みたいなものですか。
シュシャン はい。安全か、生活のために働くか、二者択一では方向を決めにくい。違うパラダイム(枠組み)にしていくのがいいと思ったんですね。お客様にも働く人にも、できるだけ多くのハピネスを提供したい。そうした会社の理念に沿い、経験したことのないコロナ禍でどうするのかを考えました。当然、個人個人の事情がありますから、ケース・バイ・ケース、フレキシビリティを第一に、状況を聞きながら働く環境を整えていくことにしたのです。
― 個々の事情に寄り添えば、働く人は気持ちよく働けますね。
シュシャン そうしないと。みんな生活がかかっていますから。そのかわり、きちんとしたセーフティメジャーを設け、守っていくことにしました。その際に大事なことは―弓道にも出てくる言葉です―平常心ですね。
曄道 冷静沈着でいることですか。
シュシャン 周りは何をやっていても、平常心をキープしていくこと。これは、言うのは簡単ですけれど、ご存じのように実行はとても難しいことです。弓道でいうと、道場ならば周りに見知った仲間がいて、結構気が楽です。でも審査に行くときには、ものすごく緊張してしまい、「ああ、どうしようかな」と不安になってしまいます。弓道の先生から、こんな助言をいただいています。「審査のときにはいつもの道場にいるときのように弓を引きなさい。逆に、道場にいるときは、審査の時だと思って、弓を引きなさい」と。
― 緊張感を排除するのではなくて、利用するのですね。理にかなっていますね。
シュシャン そうそう。そうすると平常心が培われるのです。一日一日を平常心で。今回のコロナ禍で、私も経営者として平常心の重要さを、改めて学んだように感じています。
― 今回のコロナが、売上げや消費者のニーズにどのような影響を与えたのでしょうか。ビジネスのあり方が変わったということもあったのでしょうか。
シュシャン
そうですね、我々は前から「憧れ、身近で」という戦略を掲げていました。ゴディバのチョコはちょっと贅沢な感じがします。それを身近に買えるようにする。それが「憧れ、身近で」です。そこからさらに進めて、コロナ過の前から「オムニチャネル」*というビジネスモデルも実現していました。百貨店、ショッピングモール、駅ビル、スーパーマーケット、コンビニ、インターネット、カフェ……どこでも買える。これには、社内でも、取引先からも議論がありました。行き過ぎじゃないかとか、これでいいのかとか。
*オムニチャネル リアル(対面)とインターネットなどの境界を取り払い、あらゆるチャネル(販路)から買えるよう、流通経路を広げること。
曄道 展開し過ぎだという批判があったのですね。
シュシャン 確かにそういう声がありました。けれども、コロナ禍になってから社会的にもオムニチャネルが広がりました。今となっては、我々の戦略はすっかり当たり前になってしまいました。
― コンビニでも買えるというのは、驚きました。手に取りやすくなりましたね。
シュシャン
そうです。今回のコロナ禍で、ショッピングモールにあったゴディバの店舗では、モール全体がクローズしてしまったので、商品を買えなくなりました。けれども、スーパーマーケットは開いていたので買えました。こう考えると、オムニチャネルが新しい社会にすごくフィットしていることがわかります。
お客様にとって大事なのは、ブランドと商品とコミュニケーションです。どんなチャネルで買ったかということは重要ではないでしょう。例えば、今日はたまたま銀座にいるから三越か松屋でチョコを、翌日は東京・港区に用足しに行ったついでに近所のコンビニでアイスクリームを買ってみましょうとか、今日は家だから、スマホで注文するとか。
確かに昔は、どこで売るかがブランドにとって重要でした。売る場所によって、ブランドの格が決まってしまうことがありました。でもこれからは、ブランドとお客様の関係を考えればいいのです。どこで買えるかはブランドの格ではなく、単なるアクセスポイントと考えればいいと思ったのです。
曄道 そういう考え方だったのですか。私、お目にかかったら絶対うかがいたいと思っていたことがあります。今おっしゃっていた内容です。ゴディバというブランドは、いつの間にか、とても身近になりました。海外に旅行すれば必ず空港でお店を見かけるし、アメリカに行ってコンビニに入っても見かけるし、日本でもそうですね。これだけどこでも見かける商品になったにもかかわらず、ゴディバというブランドの格が下がったという気が我々消費者にしていないのです。いったいこれはどうしてなのだろうと不思議に思っておりました。
シュシャン
ブランドとは、企業の姿勢です。それは商品のクオリティに表れます。我々は、チョコレートや焼き菓子を作るときに、一切妥協はしません。いいカカオを使います。材料は全ていいものに限ります。だから、どこで買っても、「やっぱりゴディバのチョコはおいしいな」と言ってもらえるのです。
「おいしい」は自分の体で感じることです。それがお客様との信頼関係を強固にしてくれます。だからどこで売っても、ゴディバのブランドの格は下がらないと思います。
曄道 ほかに、そういう会社って思い当たらないのですよ。世界のどこでもアプローチができるけれども、決してそのブランド自体が大衆化しない、そういう例を探そうと思ったのですが、どうも見当たらないのです。ブランドのイメージが下がってしまったケースはいくらでも思い当たるのですが。
― コンビニにはコンビニ専用の商品、デパートにはデパート専用で作り分けるメーカーもありますね。
シュシャン 確かにそうですね。
曄道 デパートとコンビニとで作り分けて販売したら、我々大衆は、より身近なコンビニ商品のイメージに引っ張られるように思います。
シュシャン 引っ張られる、ですか。
曄道 格が下がったように感じる、という意味です。だけど、ゴディバの場合は、それがない。
シュシャン 最近、キーワードを切り替えているのです。ラグジュアリーではなくて、ハピネスに。お客様一人一人をハッピーにさせたい。今日は夜8時で家に帰れる、そうだ、近所のローソンに寄って家族へのお土産にスイーツを買おうと思ったとしますね。そういうときに棚にゴディバのスイーツがあったら、プレミアム感がありますね。
曄道 確かにそうですね。
シュシャン 例えばロールケーキ。我々のロールケーキは、大ヒットしたんですよ。ふつうは1個150円だったのに、我々のは400円近い。それなのに、すごく支持されました。お客様はコンビニの中で何を求めるのか。お求めやすい値段、クオリティのものだけではなくて、ちょっとラグジュアリー感を出しているゴディバも選んでくださったのです。
― とはいえ、驚きましたよ。ローソンのウチカフェで最初に見た時は、この値段で出すのかと。コンビニで商品を出すことに、社内的に議論はなかったんですか。
シュシャン もちろん、コンビニに出すことは議論がありました。けれども、結果的には相乗効果が出たようです。ブランド名が目に入りやすくなり買う機会が増えたから、売り上げにも貢献できる。もちろん、疑問は結構ありましたよ。けれど、疑問は論理。物を買って食べるのは、体ですよね。
― それも弓道の教えでしょうか。
シュシャン
そう、よく弓道の先生に言われます。私は理屈屋ですから、質問をたくさん先生にぶつけます。すると先生は、弓は体で引くんだとおっしゃいます。頭で、どうこうではなく、まずは体で引く。難しいでしょう。でも、まずは体ですから。
コンビニへの出品の議論も同じ。ミーティングの席上、ゴディバをローソンのウチカフェに出す是非について、みな一生懸命、論理的に考えます。でも考えると「ノー」の結論が出てしまうのです。ところが、いざ商品をコンビニの棚に出すと、お客様は目に留め、買ってご自分の家で食べてくださる。全然違うでしょう。論理的じゃないんですよ。
【ひとこと】 ブランドとは企業の姿勢そのもので、その堅持がお客様との信頼関係を強める― 。ビジネスがテーマでありながら、話はしばしば弓道の世界に踏み入った。ブランド論はまさしく「正射必中」。正しい姿勢で射れば必ず的に当たる、つまりお客様の心につながるということだ。私事だが、少し弓道をかじったことがある。こんなふうにビジネスや日常に応用できる武道であったとは……。すぐに弓を投げやった過去が、今さらながら悔やまれる。(奈)