効率的な組織にはなったものの、ピラミッド型構造の下で人と人の軋轢が生まれ、仲間たちが去っていった。どうすればいいのか。問い直しは、一冊の本から始まった。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)
― 組織のありように悩んでいる中で、「ティール組織」(フレデリック・ラルー著)に出会った。どんな受け止め方をしたのですか。
宮城
みんながオーナーシップを持ち、起業家のようなマインドで仕事ができる組織に進化したいと思っていたんです。しかしそれは、ピラミッド構造の中で願っても難しいことでした。ETIC.は、最終的には創業経営者である宮城のものだということになってしまうわけです。
スタッフは、実際には自分事としてそれぞれの場面で取り組んでいますが、最終的なリスクは私自身が取っていますし、最終的な誉れも私に来るわけです。オーナーシップという意味では、一番おいしいところを持っていってしまっているのです。
だからこれを手放すことが、組織がみんなのものになるという意味において手っ取り早いと考えました。じゃあ、創業者は全員やめるべきだという乱暴な話ではないですよ。ETIC.の場合、そもそもが一人一人の意思や生き方を尊重する在り方で経営してきたので、その看板と今の組織の形がマッチしなくなっていたということです。
手を放すことを思いついたとき、悪いことは何も浮かびませんでした。だから、その後、迷ったことは一度もありません。単に次にやりたいことがあるからというのではなく、組織自体の進化を徹底して考えたら、もうこれしかないと自分の中で確定したのです。
曄道どこの組織でもそうでしょうが、引き際は本当に難しい問題です。例えば我々のような大学も、そうした難しさを持っています。大学教員はもともと所属意識が希薄です。会社員とは違って、起業家的なところがあります。自分がこの研究で生計を立てて行こうと考えたら、研究活動の持続性には常に意識を向けている。ネタがなくなりましたという状態に陥った研究者は見たことがないです。同時に、「自分が辞めた方が、大学の発展につながるだろう」と考え、辞めた教員を私は見たことがありません。
素人考えで恐縮ですが、ご自身がつくった組織だから発展をさせたいという思いがもともとある、それが所属意識の中でさらに醸成され、辞任という判断につながったのではないか。そうも考えます。
大学は良くも悪くも所属意識が少ない教員が過半数を占める組織で、構造的に曖昧な組織です。オーナーシップを持つ人間が少ないということも意味しています。そうなると、これからの社会での大学の発展は、どこかで衣替えをしなければならないのかもしれないと考えながら、話を伺っていました。
宮城
すごく大切な視点だと思います。そういう意味でいうと、私たちが今取り組んでいる変化の旅路と近しい共通項が結構ありそうな気がします。大学も非営利組織だと思うのですが、非営利組織の経営や進化ということで言えば、私たちが取り組む改革という実験も結構、参考にしていただけるかもしれません。
オーナーシップという観点でいうと、それぞれの先生はご自身の研究へのオーナーシップはおありでしょうが、その部分と組織の進化へのオーナーシップがどういう形でリンクしていくのかといった点は研究に値すると思います。ある意味、それぞれが個別の進化を追求できる形にするのも一つの結論でしょうし、個別の進化を追求しつつ全体の進化を担っていくという結論もあり得ます。
― うまくいかないこともあり得ますね。個別のオーナーシップと組織全体のオーナーシップが背反することもあるでしょう。
宮城
今は対立構造です、簡単に言ってしまえば。組織はどちらかというと取り締まる側、コントロールする側で、現場の起業家や先生方はそこから自由であろうとする。背反する、対立するように見えるけれど、全体の進化もかなえるようなベクトルで、組織の進化が個別の進化を促すといった形がこれからの組織のあり方として必要ではないでしょうか。そこを徹底して考え抜いた経営をしている組織は日本にはそうはないと思います。
シリコンバレーのITベンチャーなどはすでに取り組んでいます。人が資本だということに気づいているわけですよね。だから、最高の人材が最高のパフォーマンスを発揮できる組織への進化にかかるウエイトが、とても高くなっている。単に高サラリーを出せば今の時代の若者で最も優秀な人が採れるわけではないのです。組織自体が進化しなきゃいけないということにしっかり向き合っていて、そこですごい変化を起こしている。本当は組織論や人材教育論の先端にいるべき組織が、資本主義の現場で磨かれている組織にかなわない現実があるとみています。
― さきほどおっしゃっていた「Z世代」、上の世代の価値観と大きな隔たりがあるとのご指摘でした。その価値観はどこで培ったのでしょうか。小学校や中学校、高校などの教育機関の変化か、そのほかの何かか、それとは関係なく自分で自分を進化させた結果が「変わった」なのか。どうお考えですか。
宮城
全く無関係ではないと思いますが、学校が進化したから彼らが進化したという因果関係ではないのではないでしょうか。学校が全く進化していないわけではありませんし、時代をキャッチアップするため頑張っておられる先生もいますが、それ以上に社会の環境が与えている影響のほうが大きいと見ています。
学校と世代の関係が見える契機になったのがコロナ禍だと思っています。学校に行くのが当たり前ではないかもしれない状況が、期せずして訪れてしまいました。今、学校に行くことはリスクなので行きませんという主張が成立する時代が、史上初めてやってきたわけですね。不登校になる子どもたちがすごく増えたのは、当たり前だと思うんです。そもそも学校に行くということの意味を感じられなくなったというか、学校が提供しているものと自分が求めているもののギャップみたいなものに気づき始めていた子が、行かなくてもいいかもという選択を与えられたら、「渡りに舟」とも思うでしょうし、行く意味が分からなくて緊張の糸が切れたように感じている子もいるでしょう。
― 大学も同じかもしれませんね。
宮城
同じ構造にあるでしょう。もはや強制力を持って学校に戻すことは不可能な時代だと思います。それは、私が組織をやめた構図ともつながります。昔なら、俺の言うとおりにしろ、俺がこっちに行くんだからついてこいという改革の仕方が成り立ったでしょう。それと同じで、今のような社会情勢の下、子どもたちにもう一度強権を発動して学校に来いということは、もうできないと思います。結果的に、教育現場がコロナによって問われたのでしょうね。その中で、私は文部科学省の若手官僚たちと一緒に学校長や教育長の全国ネットワークづくりに取り組んでいます。コロナを機に学校のあり方を変えていこう、あるべき形に進化するスピードを速められるのではないかと期待して動いている方もいらっしゃいます。その一方で、諦めかけている人もいます。とはいえ、学校も結構なスピードで変わるのではないかと感じています。
もちろん、大学生も変わっていくでしょう。間違いないと思います。私たちも大学生向けのプログラムをやっているので、彼らの価値観はもう後戻りしないだろうと実感します。
― 後戻りですか? 例えばどのようなことでしょうか。
宮城
かつての成功イメージ、経済的・権威的な成功をもって彼らをコントロールすることは難しいということです。就職活動というポイントで言うと、マジョリティが志向する就職活動の在り方は変わらない感じですが、今まで極めて例外でしかなかった存在が、5%とか10%とかの勢力になってきていると思います。
就職活動というのは、かなりコンサバティブに走りがちなタイミングです。受験戦争を切り抜けてきている時点で、そのプログラムが体の中に組み込まれているようです。でも入社してしまうと、強制的にみんなと比べられる土俵上での戦いがいったん終わるじゃないですか。昔だったら、その会社の中での出世競争があったのでしょうが、だんだんとそこに関しての競争意識が薄まってきているのではないでしょうか。就職のときまでは勝ちたい。「就職偏差値」で高いところに行きたいというのはやっぱり今もマジョリティでしょう。入ったらそこで成し遂げられてしまい、簡単に1年とかでやめちゃったり。単にある種の怠け心という見方もあるでしょうが、入社後の選択はかなり自由になりつつあると思っています。
会社に定年まで勤め上げるという風な感覚はもう持っていないようです。そういう人も中にはいるでしょうけども。例えば今、ETIC.に来ている学生たちの間では、仮に金融機関に就職することになりましたと言う学生がいると、「何で行くの」と言われます。一昔前なら憧れの就職先で「すごいね」と言われたものですが。もちろん、みんなではないですよ。割合で言えば10%ぐらいかもしれません。軽蔑とまではいかないんですけど、理由を聞かれるわけです。
曄道 私の実感では、まだ10%まではいっていない感じがします。今の学生世代は成功体験を何も伝えられていない世代だと思います。例えば、高度経済成長を経験した、私よりちょっと上の世代、その成功体験はもはや通用しない。今の学生の保護者の世代― 私よりちょっと下だと思いますが― はむしろバブル崩壊やその後のリーマンショックの恐ろしさを知っていて、何をもって成功とするのかということを模索した世代です。一方、まさに宮城さんが手がけてきた、自分で切り開いていく起業家のような生き方については、成功している人がまだごく少数である。だから結局、本学で預かっている学生たちには、何も成功体験らしきものを伝えることができない。学生たちにキャリア教育で伝えるべきは何かを知っている人間すらいない。君たちが自分自身で切り開く時代だよと言ってしまえば、確かに正しいことかもしれないけれども、多くの学生たちは突き放されたと思ってしまうでしょう。あるいは、自分自身には何も道のヒントをくれないのかと不満を抱くことになる。だから、そういう意味では大学自体も非常に難しい時期にあって、手探り的でもあるし、暗中模索的な状況に陥っていると思うのです。
【ひとこと】 看板と現実の組織。創業から時間がたてばたつほど、そのギャップは目につくようになるのかもしれない。それでも、人生を模索している若者たちはドアを叩いてくる。時代は、その活動とともにどのように流れ、語るべき成功体験を紡ぐのだろうか。(奈)
(次回掲載予定日は1月7日)