求道者たち

vol.01

 道はあるか。どこにあるか ー理念を追い求め、社会が、国が進むべき道を模索し続ける人たちがいる。時に周囲から厳しく批判され頓挫しながらも、常に高くアンテナを張り、書を片手に実世界に学ぶ姿勢は、現代の求道者とたたえても過言ではないだろう。

進化のために、しっかり手放す

人口知能(AI)技術を活用し、誰もがより創造的に生きられる「新しい未来」を目指すビジネス展開で注目を集めるシナモンAI代表取締役Co-CEOの平野未来氏。ビジネスに浮沈はつきものとはいえ、厳しい登りと下りの中で、絶えず自分を励まし、更新できるたくましさに敬服する。その原動力は何だろう。AI技術の最先端を切り開く経営者から出てきた言葉は「他人の天国、自分の地獄」。誰かに認めてほしい、ではなく自分の評価軸、それこそが道を開く原動力だというのだ。求道者最終回は、颯爽と我が道を行く平野さんに聞こう。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)

ひらの・みく

2008年東京大学大学院修了。
2005年と2006年には、自身が開発に関わったECサービス関連などのシステムが、IPA未踏ソフトウェア創造事業に2度採択された。在学中にアプリ開発のネイキッドテクノロジーを創業し、2011年にmixiに売却。
2012年にシンガポールでシナモンを創業、16年に日本法人を設立。

きっかけは過労死事件

― 人がすべき仕事とそうでない仕事を明確化することを、平野さんは早い時期から提唱しています。日常的に発生する無駄な業務をなくし、人が創造性あふれる仕事に集中できる世界を目指すと。なぜこの理念に至ったのか、具体的なエピソードがあったらお聞かせください。

平野私がAI事業を始めたきっかけは、若者の過労死事件が大きかったです。今でこそ過労死に至るような労働環境は異常だと認識されましたが、当時は違った。ちょうど私も母親になった頃で、亡くなった女性のお母さんの気持ちになって、悲しさと怒りで胸がいっぱいになりました。こんな働き方を許容する社会システムに対する怒りが、うちの会社のミッションというか、今の世の中の働き方を変えていかないといけない、機械ができることは機械に、人は人しかできないことをする、それがきっかけです。

曄道お気持ちはよくわかります。私もあの事件は非常にショックでした。と同時に、これから学生に何をどう伝えていくべきか、改めて重責を担っているとも感じました。
 今は過渡期です。学生たちは親たちの背中を見て育っていない世代だと思っています。例えば私の世代であれば、強力な時代の方向づけと勢いがあり、何となくその流れに乗っかっていくのだろうと思い込んで、自分の道を考える時代でした。今の学生たちは、親や今のリーダー層を見ながら、その下で歩いていけばいいというわけではないことだけは分かっている。けれども学生は日本の教育の枠組みの中で従順に生きてきました。だからこそ、今まで見せられてきたものではないものを自ら見る、そのきっかけを作ることが我々に求められているのだと思いました。

平野私は教育の専門家ではありませんが、今の日本に足りないものは「心の教育」だと思っています。
 日本では小さい頃から「役に立たなければならない」という呪いが教育全体を覆っているように感じます。その一方で「意味がある」ということが軽視されているように思います。自分の感情を動かすものです。過労死事件は、いまだに思い出しただけで鳥肌が立つぐらい、感情が揺れ動きます。自分にとって「意味があること」は何なのか、意味があることを中心に大きく広げていくと、どういう世界になるかを考えられればいいのではないでしょうか。
 私たちは、MTP=massive transformative purposeを大事にしています。30年以上先に実現する、現状とは全く異なる世界観と意訳しています。多様な社会課題の中であっても、自分にとって大きい課題を解決できたら自分の人生には大変意味がある。そういう課題を見つけられることが大事だと思います。

無駄をなくせば「意味ある仕事」に変わる

― 無駄な業務をなくすと仕事が「意味のあるもの」に変わっていくということでしょうか。それとも意味のあるものに特化していくと、無駄な業務がなくなるということでしょうか。

平野無駄なものをなくしていくと、仕事がどんどん意味あるものになっていくと思います。私自身にとっては「意味ある仕事」は、一人一人自分の仕事ができて、しかもMTPの世界観にみんなが向かうことです。

― 無駄な業務をなくして、それぞれが「意味ある仕事」に向き合える。どんな職場を実現されたのか、具体例をお示しいただけますか。

平野私たちは今、ナレッジマネジメントに取り組んでいます。ナレッジ(知識)が自動的に集約されていくといったらいいでしょうか。例えばチャットボット(外部からの問い合わせにAIが自動で応対する仕組み)を作ろうとすると、裏でたくさんシナリオを用意しなければいけない。お客さんがこう尋ねてきたらこう言って、という分岐を作らないといけない。あまりに大変なので、結局、限定されたことしかできないチャットボットが普及しています。でも私たちの技術——ナレッジグラフと言うのですが——だと、概念と概念の関係性を技術的に結んでいくことで、シナリオを作らなくてもシナリオになるのです。

― シナリオをたくさん用意できるのは、人間だからですよね。相手のことを想像できるから。それを人間でなくてもできるということは、人工知能がそこまでできるようになっているわけです。となると、大半の業務は人間が要らないというレベルまで到達するのは、そう遠い未来ではないのかもしれませんね。そうした時代も想定されて仕事を作っているのでしょうか。

平野そうですね。少なくとも反復的に発生している単純な業務は「無駄な業務」じゃないかと思っています。ナレッジマネジメントができていないがゆえに業務が属人的になっている部分もあります。例えば、ある人はすごくセンスがいいから、お客さんが求めていることを何となく分かって、適切な助言ができる。でも、人によっては、お客さんに必要なものを出せない。これは本当にもったいない。

― すばらしいセンスの人と、それほどではない人が同じ仕事ができるようにする。それがナレッジマネジメントということでしょうか。

平野そうです。ここで使うのがナレッジグラフです。例えば、「モナリザ」はルーブルにあります。ルーブルは美術館です。モナリザはダヴィンチによって描かれています。ジェームズさんという人はモナリザが好きで、パリに住んでいます——。こういった概念と概念の関係性を結び付け、グラフ上に落としていくのが「ナレッジグラフ」という技術です。ナレッジグラフを使って、ジェームズさんが欲しがっている「モナリザに関連する様々な周辺情報」を提供することができます。
 これは20〜30年ぐらい前からある技術ですが、作るのに膨大な作業量が必要でした。近年、AI技術がかなり発達して、ナレッジグラフを効率的に作ることで、いよいよ実用できる時代になってきているのです。

一日中、ぼーっとしていた子ども時代

― 人間にしかできないこととは何でしょうか。

平野抽象的に考えることは、機械にはできないのです。あるエリアで100万回思考する、みたいなことは機械が得意なことです。そこから、限られたエリアの中で最適解を見つけることも得意です。では例えば、新しい法律ができたとき、その法律をどう解釈するのかといった抽象的な思考は、機械ではかなり難しい。シンギュラリティ(AIが人間よりも優れた知能を生み出す技術的な転換点)が実現したとしても、機械にそれができるのかどうか、私は結構懐疑的です。

曄道法解釈には多様性がありますね。こういう解釈があるけれど、こうも解釈できる。それを機械学習して、何通りかの解釈を導き出すことができるようになるのでしょうか。

平野AIができるようになるのかな……。

曄道解釈が何通りかできますという曖昧さに、人間社会は随分助けられてきたと思うのです。ある人はこう解釈している、別の人はこう解釈している、AIはこういう解釈をした…となった時、社会の中で優先度はどう決まるか、それを誰が判断するのでしょうか。

平野面白いポイントですね。私たちの場合、企業にとっての利益に結び付くものになると思います。短期的に顧客満足度を追うことで、長期的な利益を追及するといった話になるかもしれません。いずれにせよ何かしらの尺度をもって、判断していくことになるでしょう。

曄道判断していくのは、人でしょうか。

平野そうですね。やはり一段抽象的にならないといけないですから。どの基準を大事にするのかを考えるのは、一段上から見ないとできないと思います。

― AI時代と言われても、人間の知能は必要不可欠、だからこそ知を磨く教育が重要なのですね。ところで、平野さんはどんな子でしたか。

平野一日中、ぼーっとしている子で、授業も集中して聞けなかったので、小学生時代は先生に怒られまくっていました。

曄道授業で何かが伝えられたときに、いろいろな発想が出てくるからですよ、きっと。そもそもそれを拒絶しているタイプのお子さんもいるけれど、どちらも学校での評判はよくない。結果的にはどちらも先生の話を聞いていないから。
 私は最近、気づいたのです。世の中を動かす人は、学校の授業を一生懸命聞いて、何すればいいのでしょうって思った人じゃないのです。最近、そのことを痛感させられる場面が多くて。世の中を動かしている人たちに、小さい頃の話を聞くと、共通するのは、何かを教えられようとしたときに、もう既にその話から、自分のいろんな展開が出てきちゃうようなのです。で、後から底力を発揮する力になっているようです。

平野わかります。授業で何かをインプットされると、発想が広がっていくのです。例えば『お団子が10個ありました。そこへお隣さんからさらにお団子を20個もらいました』といった問題があったとしますね。そうなると私の頭の中で、「じゃ、お団子1,000個もらったらどうなるのだろう」って。とっ散らかってしまうのです。

曄道それを「とっ散らかっちゃう」と子どもに思わせる教育の方が問題ですよ。そういう話の聞き方をしてはいけない、これはこういうふうに聞きなさい、こう答えなさいと枠をはめ、それができた子が優秀なんて育てているから、いざ社会に出て「クリエイティブな仕事をしろ」と言われてもできないのです。そんなことばかりしてきたから、日本の社会が硬直化して、グローバル化にも対応できない状態になっているのです。

― かつてはそれでよかったわけですね。大学教育も。

曄道そう、高度経済成長期であれば、モデルがあったのでそれを後追いすればよかった。工学教育ってまさにそうでした。かつての日本の工学教育は成功しました。あれだけの高度経済成長を支える科学技術を持てたわけだから。けれども、今は通用しない。かつての科学技術教育を今も引きずっているのだから、日本が力を発揮できないのは当たり前だと思うのです。

平野とっ散らかっちゃっているのが駄目だというのが駄目だとおっしゃってくださったこと、心強いです。そう思っている方が学長をされている上智は、いい大学ですね。

曄道私、かなり真面目にしゃべっているんですけど。

平野私も真剣にそう思っています(笑)。

― いい空気ですね。読者の皆様にもお見せしたいぐらい。ところでぼーっとしていた子どもさんが、どうしたら今の平野さんになるのでしょうか。

平野小学校と中学校と高校では何も聞いていなかったけれど、大学と大学院ではしっかり学びました。私は情報科学専攻で、大学1年のときにプログラミングの楽しさにはまりました。一日中プログラミングしていました。大学4年時には研究室に配属され、そこから論文を書き始めましたが、これがまた楽しかった! 論文を書くことを、小学生ぐらいから始めたほうが、学びになると思います。とっ散らかっているものを世の中に意味あるものとして出せるという仕組みとして。

曄道平野さんが大学や大学院でのめりこめたのは、小中高の過ごし方にあったのだと思うのです。上智だけでなく、他の大学でも同じ悩みを抱えているでしょう。そこにくる学生たちに、深く、自分自身が入り込んでいくための素地がない。枠組みの中で育っているからです。私自身も、枠組みの中で育ってきているため、次の枠は何かと考え、そこに自分をはめてしまう。でも、それは大学でやるべきことなのか。これもやって、あれもやって、単位が揃ったから、はい卒業、みたいなことでいいのか。平野さんのように過ごしてきた方が、大学や大学院であることにのめりこめるような場でありたいと思っています。

【ひとこと】 教室でぼーっとして、時に「お団子1,000個」を思い浮かべている子どもが、日本の未来を切り開こうとしている。「うちの子」で困っている親たちをほっとさせるエピソードだろう。学校では先生の、職場では上司や顧客の、私たちは常に誰かの評価の中で生きている。他人の評価を意に介さない。未来をつくるという一大ミッションがあるからだろうか。ともあれ、その強さだけは世界中の「うちの子」に分けてあげてほしい。(奈)

(次回掲載予定日は6月2日)