求道者たち

vol.01

 道はあるか。どこにあるか ー理念を追い求め、社会が、国が進むべき道を模索し続ける人たちがいる。時に周囲から厳しく批判され頓挫しながらも、常に高くアンテナを張り、書を片手に実世界に学ぶ姿勢は、現代の求道者とたたえても過言ではないだろう。

「敗北の時代」を乗り越える(4) 経済同友会前代表幹事 小林喜光氏

企業の採用が変わり始め、一方の大学教育も動き出している。敗北の時代を乗り越え、話は どこに進むのか。シリーズ最終回。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)

リベラルアーツと教養教育

― 先ほどリベラルアーツが必要との発言がありました。リベラルアーツの定義を教えてください。人によって言葉の定義が異なるので。

小林 サイエンスもリベラルアーツの1つでしょうし。要は、人間の思考、あるいは、クリエーティブになるための肥料になるような、そういう方法論、あるいは、知識ということかな。

― なるほど。そういうものを企業の経営者たちも、今、身につけようとしているんですか。

小林 そうそう。だから、冒頭のリーダーシップとかトップセミナーも、他業種、異業種と接触しながら、自分の考え方の狭さを認識させるというのも、一種リベラルなアーツじゃないかと思いますよ。

曄道 今、お使いになった「クリエーティブな」というお言葉、その意味でのリベラルアーツ。日本の中で教養教育というものと、リベラルアーツというものの言葉って、結構、曖昧に使われています。さらに言えば、社会の中で議論される教養というのは、教養人というと物知りの人を指す、そういう固定観念があると思うんです。私はそこが日本の教養教育が反省すべき点だと思っています。典型的なのは、大学の教育の中で、教養教育というのは基本的に1年生、あるいは2年生の前半ぐらいまでに履修して、3年、4年生に入っていく。だから4年になって教養科目をまたとらなきゃというと、お前、落としたのか、みたいな話になるわけですよね。本来、教養というのは、それこそ生涯教育じゃないですけれども、どんどん、どんどん、社会に入ってからも、20年、30年積み重ねていって、そのこと自体が新しいイノベーションにつながっていくような知として発揮されるべきものだと思います。けれども、日本というのは、知識として蓄えるものという文化が非常に根強い。

小林 そうですね。今、アイフォンで見れば、大概の知識は簡単に手に入る。

曄道 学生が今、一番陥りがちなのが、自分の教養がアイフォンに詰まっているという錯覚なんです。つまり、いつでも引き出せるという錯覚です。でも、引き出せるものは情報だけですね。情報と教養の違いの区別がつかない。

小林 そこは、本当に想像力とクリエーティビティーがものをいうところです。

「通年採用」は社会を変えるか

― 想像力と創造力は大事ですね。これなくして学ぶことはできません。小林さん自身は、どうやって学んでいるんですか。

小林 新聞は欠かさず、しっかり読む。二、三紙ですよ。それと、本がたくさん送られてくるんでね。パラパラッと見て、おっ、これはいいというのは、しぶとく読みますよ。ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」「ホモ・デウス」「21世紀の21のレッスン」とか。これは、結構いい。読むのはやっぱり、この社会って何なんだろう、人間って何だろう、そういうのが興味の中心です。会社って何だろうなんて、読みたくもないね。自分で考えろよというか。

― ノウハウ本ではなく、考えさせる本ですね。「サピエンス全史」は、進化の中で私たち一人一人は本当に幸せになったのかと問いかけていましたね。

小林 そうですよね。「サピエンス全史」は何でただ生き抜けたかという話だった。「ホモ・デウス」に至っては、ほとんど、2045年のシンギュラリティじゃないけれども、いずれ、AIは間違いなく、量子コンピューティングぐらいになってくる。もう処理速度であろうが、ストレージであろうが、莫大になると、もう、間違いなく彼らに負けるというディストピアを描いているわけですよね。そしてとんでもない格差が生じる。
 ベーシック・インカムをどの辺に設定して、最低限、機械とAIとロボットにほとんどのことはやらせながら、人間が人間として、国家、公的な部分など最低限必要なところだけはみるとか、そういう設計を早く始めていかないと。そうなるとトランプとかブレグジットとか、もう全部、アンチグローバリズム、時代はグローバリズムとは逆に来ているわけじゃないですか。
 人生100年とか言うけれども、しょせん、死ぬんだよね。人は死ぬという運命があるから、哲学が生まれ、何で俺って生きているんだろう、生きるって何なんだろうと考えるけれども、機械とかAIみたいなのって、永遠に“人生”があるというか。永遠に潜っちゃうじゃないですか、情報が。これ全くもって違う価値観の世界が広がってくると思うんですよ。
 だから、21世紀中ごろというのは、もう、この地球環境も含め、今まで人類の経験していない、とんでもないことが起こるということを、若者にはもっとわかってもらいたいなという気はするね。

曄道 若者たちにそれを、今、伝えようとするいろんな試み、あると思うんですけれども、その中で確実に使われる言葉が「不確実性」であるとか「不透明性」であるとか……。

小林 VUCA*とか。
*Volatility(不安定さ)、 Uncertainty(不確実性)、 Complexity(複雑性)、 Ambiguity(あいまいさ)の4つのキーワードの頭文字から作った造語。

曄道 若い人たちに不安をどんどんあおっている。本来は、不確実な時代はチャンスの時代であるべきなのに、その不安ばかりが大きくなり、特に、今の親の世代もちょうど、日本が下降期に成長した人たちが多いから、より一層、その不安が助長されるわけですよね。そうなると、さっきおっしゃった、ファーストペンギンとして飛び込もうという気概は出てこない。
 時代の変革というのは、一種、おっしゃったように、倫理も変わるし価値も変わる。私たちは、そこにかかわれるんですよ。

小林 もう、最高のチャンスですよね。

曄道 おっしゃるとおりです。

小林 何万年の人類の中で、こんないいチャンス、ないじゃないですか。

曄道 私の世代は、どっちかというと後追いの世代ですよね。伸びている、成功しているものを見ながら育って、後ろを追っかけていけばよかった。そういう意味では、振り返ってみるとちょっと退屈な時代だったかもしれない。
 だから、そのことを、どう今の若い世代に伝えるかというのは、大人――若い世代ももう大人ですけれども――我々の本当に大きな役目だと思っています。
 「不確実」「不透明」と考えるのは、今までの時代を経験した、我々以上の世代の人間にとっては不安でしょうが、若い人たちにとっては不安であるべきではないと思うんです。そのための教育をどうやっていくかというのは、これはやっぱり、中等教育も含めての改革が必要でしょう。

小林 だが、伝わらない。若い世代がもっともっと保守的になっちゃっているんですよね。

― 最後に、今の学生、大学に一言お願いします。

小林 人生、何で生きているかというのは、これはもうロマンですよ。人生の意味とか価値って、しょせん、僕らにはわからない。だけれども、何か、ここまで育ててくれた社会というものに対して、ロマンを持てる。経営もロマンだと僕は思っているんですよ。
 命は5つあるという。とりわけ、「宿命」という命は、もう男に産まれるか女に産まれるか。どんな姿で産まれるか、これどうしようもないよね、もう宿命だから、耐えるしかない。だから宿命に耐える。
 「運命」というのは命を運ぶわけですよ。孟子が言っている「立命」も同じなんだけれども、やっぱり、命を運ぶ、立てるというのは、やっぱり、自分がかなり関与できるわけ。運ぼうと思えば運べるということで、努力すれば何とかなるという、だから運命と戯れる。
 だけれども、これだけじゃ、自分は何のために生きているかわからないじゃないですか。生きるというのは、やっぱり「使命」で生きるんですよ。これは社会のため、家族のため、愛する人のために生きる。

― 宿命、運命、立命、使命、あと、もう一つは。

小林 もう一つ、「天命」というのがあるんだ。これ、ドイツ語で「ベルフェ」というか。要するに、職業という意味なんだから。

曄道 その言葉は上智の学生に、ぜひ伝えていただきたいですね。やっぱり、その使命というものの中に、その使命を果たすために、志であるとか、自分の信念であるとか、そういったものをつくっていかないと、使命感というのが持てないわけですから。そういったものに通じるような人間教育というものも、大学教育の核であるべきだし、また、恐らく、それをしっかり持った人間を輩出することができれば、社会の、大学に対する信頼感につながると思います。

小林 トム・クルーズの映画で「ミッション・インポッシブル」。人間、それぞれのミッションってインポッシブル。けれども、ミッションがあるから生きていけるって、そんな気がしますね。価値とか意味なんて、絶対、わからん。72歳まで生きてきて、結局、人生ってわからない、何で生きているのか。
 使命があるから、偶然、心臓が動いている。こう思うしかないよ。

【おわりのひとこと】 お話自体が刺激的であり、また創造的な知己に富んだ素敵な議論であった。いただいたコメントの一つ一つは手厳しいものばかりであるが、経験と根拠に基づくストーリーは、この対談で偶発的に生まれたものではなく、社会が必然的に持つ憂いであると同調するばかりである。
 ビジネス界において議論されるべき課題と、我々大学が抱える課題は、おおよそ近い範囲にかたまっている、あるいは山積しているようだ。これは、まさに人の育成は、学生~社会人の流れが不連続である証でもあると強く感じた。(曄道)