求道者たち

vol.01

 道はあるか。どこにあるか ー理念を追い求め、社会が、国が進むべき道を模索し続ける人たちがいる。時に周囲から厳しく批判され頓挫しながらも、常に高くアンテナを張り、書を片手に実世界に学ぶ姿勢は、現代の求道者とたたえても過言ではないだろう。

進化のために、しっかり手放す

新しい働き方が必要とは、よく耳にする。だが、その「新しい」がわからない。現状の何をどう変えたら新しくなるのか。模索を重ねながら改革の鉄槌を振り下ろし続けているのが、ワーク・ライフバランスの小室淑恵社長だ。赤ちゃんを抱えて起業し、自分も社員も残業ゼロなのに特筆すべき成果をあげている。既成概念の「枠」から飛び出し、仕事と生活を両立させている「新しい」生き方の実像を探った。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)

こむろ・よしえ

1975年東京生まれ。
1999年 大学卒業後、株式会社資生堂へ入社。
2006年7月に株式会社ワーク・ライフバランスを設立。

曄道大学での学びと社会で働くことをつなげたい、ボーダーレスにしたい。それが「求道者」に込めた思いです。
 高校で一所懸命勉強して入試を突破して入った大学は、高校とは違うとは言いながら、実は改めて単位制度という枠組みの中に入れられる。学校制度の枠組みの延長線上にあります。そして実社会に出ていくと、今度は「枠組みはないんだから創造性のある仕事をせよ」と言われるわけです。
 枠が提示されて、そこで道を極めるという生き方は、もはや通じないと思っています。道を探していくということ自体に独創性があるべきです。小室さんはそういう中でご自身のしっかりとした考え方を持たれ、社会に影響を与えてこられました。道を求められている方たちとの対話から見えてくるものを学生たちと共有したい。欲を言えば、実社会で働く方々にもそういう機会提供となればと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

― 前回求道者にご登壇くださったETIC.の宮城治男さんにご紹介いただきました。起業を目指して、宮城さんと一緒にどんな学びをされたのか、そこからお願いできますか。

小室はい。もう24年前です。日本女子大に在籍していた3年生から4年生にかけてアメリカに飛び出しました。帰国して最初にしようと思ったのが、インターン。当時、インターン派遣という事業はETIC.しかなかった。ETIC.でも始めたばかりで、私はインターン派遣第1号でした。
 インターンで行ったのが、渋谷の4畳半ぐらいのスペースで立ち上げたネットベンチャーでした。その界隈でネットベンチャーをやっている人たちが、金曜になると、渋谷のバグというバーに集まりました。ヤフーの川邊社長、孫泰蔵さん、ミクシィの笠原前社長、グリーの田中社長…。そうそうたるメンバーでした。

― 人生の転換点はそこでしょうか。

小室そう、それとアメリカに行ったことです。この二つの経験が大きかった。
 インターンとして1年間、4畳半のベンチャーで、未完成のインターネットサービスを多くの企業に飛び込んでいって売り込みました。出来上がっていなくても、走りながら意思決定していくというベンチャーならではのやり方で実際に成果を上げていく、会社の一つの在り方を見ていました。
 これに対して、卒業後に入社した資生堂では、石橋を360度からたたいて安全だと確信できないと何も動かない。例えば市場に24万本の口紅を出すのなら、24万本のうち1本でも折れちゃいけない。大企業の責任として本当に大事なことではあるけれど、ずっとこんな調子だと絶対に勝てないと、入社したてで危機感を持てたのは、インターンでの1年があったからだと思います。

専業主婦志向を捨てて、トンネルを貫通させる

― もともとは専業主婦志向だったとか。

小室はい。小学生ぐらいのとき、私は元気な女の子でした。学級委員をやったりリーダーシップを取ったりするのが好きでした。何の思考の制約もなかったときは、非常に元気だったんです。
 でも、小学校の後半ぐらいで気づき始めたんです。ドラマを見たり、母の本棚に並んでた本を読み始めたりするうち、どんなに女子が頑張って勉強してもトンネルは閉じているらしいということに。じゃ、何で私は今勉強してるんだと。すごく悔しくなった。男子は、トンネルの向こうで企業が両手を広げて待っている。それに対して女子は…。例えば当時のドラマでは、女子は頑張るとむしろ嫌われて、幸せになるヒロインは頑張り屋じゃない女子という展開でした。
 世の中が期待している女性の生き方は、お母さんになるっていうことなのか。じゃ、私は頑張って最終的な競争に負けるぐらいなら、最初から頑張らないスタイルなら負けないと思ったんです。屈折した負けず嫌いでした。
 女性が働くなんて合理的じゃないとまで思い始めていました。育児休業なんてものを取るのは、経済合理性を追求する企業にとって迷惑なんじゃないか。そんなプライベートな理由で何年も休む。そんな人を本気で企業が雇いたいわけがない。男女雇用機会均等法があるから仕方なく雇うんだろう。仕方なく雇った人を男性と同じように評価するわけがない。恐らくその後も道は分かれていくんだろう。
 そんな悔しい道を行くぐらいなら専業主婦志望でいいと、早くから友達に「私は最初から専業主婦を目指しているから」と周知徹底していたわけです。

― 負けたと思われたくなかったわけですね。それが進路選びの根底にあったということですか。

小室気にしていたのは友達から負けたと思われること、すごく狭い価値観ですね。
 それで高校ぐらいから、私早く結婚するの、専業主婦になるのと散々言いふらしているうちに、自分の頭もそう思い始めていました。大学3年までは授業のほとんどを寝て過ごしていました。授業中に髪を指でくるくるしながら、マスカラ直したりして、経済的にいい男子を見つけて結婚しなくてはならないから、そういう活動を頑張らなくてはならないと思っていました。

曄道何か転機が訪れるのですね。

小室大学3年のときの教養特別講義がありました。当時、上智大学の教授だった猪口邦子さんがいらした。私はその日もいつもの調子で、講堂の柱の陰のお気に入りの席にいました。先生からは死角になる、いつでも寝られる感じの席です。
 ところがお話が面白くて、どんどんと柱の陰から出て聞いてしまい、どんどん引き込まれていきました。最後の質疑のときに、最前列の学生がこんなことを聞いていました。先生はすごいキャリアをお持ちで、お子さんもいらして、どうやって両立してきたんですか、大変じゃなかったんですかって。それに対してこうお話ししていました。もちろん大変だった、でも、これからは違います。専業主婦家庭の数より、共働きで働いて子育てする家庭の数が増え、それが市場になります。働いて子育てする家庭が欲しい商品やサービスをつくれない企業は負けるから、あなたがたは日本企業に入って、働いて子育てする家庭では何が欲しいのかを教えてあげなさいと。欧米の企業には5割の女性管理職がいるけど、日本には1割しかいない、5倍のアイデアの差がついている。ぜひ日本企業に入ってあげて、そして、ぜひ育児休業を取って、子育て経験を持って会社に戻って、そのアイデアを出してあげなさいと。

曄道全くその通りです。

小室私、全身に稲妻が走ったような衝撃を受けました。猪口さんは、初めて私に経済合理性で女性が働く意味を説明してくれた方でした。それなら私だって活躍したいと思いました。でも、私がこれから活躍できるような要素は何もない、大学時代を寝て過ごしてしまった、どうするんだ、もう時間は残ってない。これを変えるには自分で何とかするしかない。そうだ、アメリカに行こう、と思いつきました。
 私は本が好きで、それまで随分、読んでいました。アメリカに行ったら人生が変わったと多くの方が書いていることを思い出したのです。それで、本当にその日の夜、母に「私はアメリカに行く」と宣言しました。母は驚きますよね、どうやって? あなた英語もしゃべれないのに? 英語の授業も全部寝て過ごしていましたから。日本女子大には交換留学できる提携校もありますが、成績が悪いので、交換留学の枠にも入れない。そういえば、新聞にアメリカでベビーシッターをして過ごしてましたという女性の投稿が載っていたと、ふと思い出しました。そこで、その新聞社に問い合わせて、投稿した女性に連絡して、どうやって行ったのかを聞いたら、彼女がちょうど日本に帰るところで、自分の代わりのシッターさんを探してるから来るといいと言われて。それで行ったんです。

― 柱の陰から出てきてからの行動力に驚きです。で、シッターとしてアメリカに渡ったのですね。

小室大学を休学し、シッターしているとき以外は放浪の旅をしていました。何でもない1年でしたが、それが今の仕事につながっています。私がシッターをしていた2歳のシイラちゃん、お母さんは証券会社に勤めていました。彼女は育児休業のような形で会社を休み、復帰をするタイミングのようでした。復帰をするときに昇格したという話を聞いて驚きました。育休を取ったのに昇格するのかと。日本なら、育休前に辞めさせられてしまう。当時1997年ですから、日本だったらあり得ない。すると、彼女は「私はeラーニングで勉強して、育休中に現役のとき取れなかった2つの資格が取れて、その2つがないと受けられない昇格試験に合格した」と話していました。
 全然、日本と違う。育休が単なるブランクである日本社会に対して、アメリカではブラッシュアップの期間なんだとわかりました。これを日本ができたら。育休中、会社は基本的にコストはかかっていません。コストがかかってない期間に本人が勝手に勉強してレベルを上げて戻ってきてくれるなんて、最高でしょう。そもそも、その女性1人に対し、国としての教育投資のコストもかかっているわけだから、二重の得。それをうまく回収できているアメリカに比べ、投資したまま放置している日本では、経済成長も違ってくるわけだと納得しました。そういうことを私はやりたいと思って、帰国したわけです。

― 男女雇用機会均等法が施行されたのは、1985年。10年以上経っても、日本で女性雇用がちっとも根付いていなかったことを実感したわけですね。それで大学4年に帰国。就職活動の時期ですね。

小室すぐに就活が始まったので、就活の波にのまれ、40社ぐらい落ちて、資生堂1社にだけ受かりました。その入社1年目の社内のビジネスモデルコンテストで、育休中にeラーニングで勉強し、スキルアップして会社に戻るインターネットサービスを、資生堂が他社に売るBtoBモデルで提案したのです。

曄道すごい勢いで展開していきますね。しかも、大学時代の経験が生きている。猪口さんの話を聞いたことはもちろん、授業の大半を寝ていたという経験がいい。そうすることで、猪口さんの話との大きなギャップをご自身が感じ、そのギャップがエネルギーになってアメリカに行かせたのですね。
 私は学長ですから、体系的な授業を組み立て、そこで学びを積み上げていくことが重要であると言わざるを得ません。一方で、学生たちに別の何かを経験させる機会を設けることに、大学はもっとエネルギーを使って考えないといけないと再確認しました。経験値を高めるキャンパスを構想しています。国連の事務総長やローマ教皇、世界をご覧になっている方をお招きしているのも、その一環です。
 ところで、就職活動で40社落ちたのは、小室さんがこういうことをしたいっておっしゃったからだと思いますか。

小室顕著です。最終面接に行くまでは毎回好調でした。現場の人の面接では、こういうことを話すと極めて評価が高い。でも最終面接は役員。オールおじいちゃんになり、活動的すぎる私は必ず落ちるという構造でした。でも資生堂だけは、最終面接にまで必ず面接官に女性が入るというルールでした。当時、資生堂にも役員の女性はいなくて、役員一歩手前の方が入っていました。彼女が私に花丸をつけてくれたんです。花丸を誰か一人でもつけたら落とせないというルールで、実際、ほかの役員はバツだったそうです。本当に首の皮一枚で入った。入社後に人事部長が教えてくれました。

仕事って、なんと面白い

― 起業が2006年。それまで資生堂で7年勤めていらっしゃった。そこでもたくさんの気づきがあったのでしょうね。

小室そうですね。入社は奈良支社で、営業担当でした。営業車で毎日お店を回る地道な仕事でした。営業という仕事の面白さと、自分が向いていることにびっくりしてしまった。このお店でこんな商品やサービスを提供すると、どうよくなるかをプレゼンテーションして歩きました。
 どんなお店かというと、店主が80代ぐらいで、これから売上げが上がりそうな店では決してなく、ミッションインポッシブルみたいな営業活動でした。でも、その80代の店主にどうしたら売上げが上がるかを、全力でプレゼンしたんです。そして一緒に実行すると、売上げが前年の130%に上がったりするのです。担当したほぼ全店が130%を達成し、支社長賞までもらいました。自分が長けてると思っている分野とは違うものが自分には向いているのかもしれない。仕事ってなんて面白いんだろうと思いました。

― ビジネスモデルコンテストは、奈良支社勤務時代に応募されたのですね。

小室普通は入社1年目で応募していいとは思わないけれど、当時の支社長が背中を押してくれました。103件の応募があって、最終的に勝ち残った2人、それが私ともう1人の女性でした。103件のアイデアの中で、女性で応募したのはたった2人だったんです。そのときの副社長がこんなことをおっしゃっていた。「男性のアイデア101件は、資生堂のビジネス領域に収まっていた。ストライクゾーンを狙ってきた。だが、女性2人は資生堂のビジネス領域なんか考えてなかった。知らなかったから全然領域からはみ出していた。でもそもそもなぜビジネスモデルコンテストを会社が行うか考えてごらん。資生堂が21世紀も化粧品会社かどうかは分からない。常に脱皮を続けなきゃ、勝ち続けられない。枠の中で動こうなんて駄目なんだ。だからこの二人のアイデアが選ばれたんだよ」。枠内かどうかを考えているうちはイノベーションは起きないと、実感しました。
 それで、実際に育休中のeラーニングプログラムをつくり、事業を黒字化するまでに5年ほどかかりました。

曄道なるほど、今日のキーワードは奇しくも「枠」のようです。ところで応募する際に、枠を意識的に外したのでしょうか。

小室いえ、そもそも資生堂のビジネス領域を正確に把握もしていなかった。 
 ただ、意識したのは、資生堂は常時300人の育児休業者がいる会社だということです。日本で2番目に育休者が多い会社だったのです。資生堂はそれを価値だとは全く思っていなかったでしょう。300人も休んじゃって、大変だと思っているわけです。でも、それだけの人が休んで、また戻ってこられる。すごい組織力です。いずれ介護休業で休む日も多くなる、と予測していました。日本の労働力人口のグラフを見たら必ずなるんですと、役員会でプレゼンもしました。

― 2006年に起業されています。社内で順風満帆だったのなら辞めない方が安泰、という発想はなかったですか。

小室順風満帆ではなかったのです。私の中では育休から復帰できれば、eラーニングでスキルアップができて復帰ができれば、それで解決だと思っていました。ところが、違った。私の開発したプログラムを導入した企業のフォローアップに行くと、プログラムを使って復帰した女性が退職しているのです。その一方で、退職していない企業もありました。その違いに目を凝らしてわかったのは、復帰した女性が辞めるのは、長時間労働の企業でした。戻った後に育児があるから定時で帰る、もしくは短時間勤務になる。そうすると、他の人が彼女の2倍ぐらい長時間働いているわけですから、本人はすごく肩身が狭いし、周りも本格的な仕事を頼まなくなる。あからさまに辞めろと言われることもあるようです。
 長時間労働の企業では、鬱で休む人もすごく増えていたのです。育児休業の女性よりも鬱で休む男性のほうが多いIT企業も実際に目の当たりにし、復帰した職場の働き方そのものを変えないと、復帰の一地点を解決しただけでは解決にならないとわかった。そこで、まず資生堂の中でプレゼンしました。働き方を改革するコンサルティング会社に発展させていきたいと。ところが当時の資生堂の業績はどん底だったんです。「今うちの会社にそんな余力はない」と断られた。カネボウが花王と一緒になった年でした。そもそもeラーニング事業も黒字じゃないしねと言われ、納得すると同時に、私の中では焦りが募りました。2007年に団塊世代が一斉に定年退職を迎え、日本の労働力人口がぐんと少なくなる。日本社会は、一刻も早く働き方を変えないと立ちゆかない。2007年がタイムリミットだから、2005年当時の私は前のめりになっていて「起業します」と辞表を出してしまった。そうしたら、辞表が受理された翌朝、吐き気に襲われて、妊娠していることが分かったのです。結婚した翌年のことでした。
 その時は、実は起業を諦めようとしました。私のビジネスパートナーになってくれた女性に電話して、妊娠して本当にごめんと謝罪しました。一緒に起業する約束だったけれど、できない、計画性がなくて迷惑をかけて申し訳ないと。そしたら、彼女に問われました。これから何の会社をやるつもりかと。ワーク・ライフバランスの会社でしょって。子どもがいる小室さんが起業する方が説得力があると思わないかと言われた。全力で支えるから、まず産んでくださいと言われて、腹が据わりました。出産して3週間後に起業しました。

【ひとこと】 あえて「枠」を意識しなくても、飛び出せるエネルギーとチャレンジ精神。それは社会を見据えた問題意識に根ざしているのだろう。こんな社会をつくりたい、そのために何が欠けているのか、目の前の現実に目を凝らし、行動に移す。それが新しい働き方、ビジネスを生み出し、社会を変えていく原動力になる。それにしても、出産して3週間後に起業とは…。(曄)